法隆寺上堂の釈迦三尊像

11月1日~3日に開扉

住所
斑鳩町法隆寺山内1ー1


訪問日 
2019年11月3日


拝観までの道
JR法隆寺駅北口から徒歩(20分くらい)、または駅南口から「法隆寺参道」行き奈良交通バスが出ている。南口にはレンタサイクルのお店もある。
王子や奈良公園方面からバスの便もある。「法隆寺前」で下車。
 
奈良交通バス

拝観入口を通り、西院伽藍に入る。五重塔と金堂の奥に見える建物が大講堂である。925年に焼失し、当初の規模のままに990年に再建されたものである。安置仏もこの再建時の作。
大講堂を拝観したら、順路に従って西院を出て、大宝蔵院や夢殿の方へと向かうことになるが、実は西院の裏手にもう一棟大きなお堂がある。それが上堂(かみのどう)で、上御堂(かみのみどう)とも呼ばれる。11月1日~3日のみ大講堂から通路が開放され、拝観することができる。
釈迦三尊像を本尊とし、四天王像が取り巻いている。


拝観料
西院伽藍、大宝蔵院、東院(夢殿)共通で1,500円


お堂や仏像のいわれなど
上堂は正面7間のなかなか立派なお堂である。高台に建ち、仰ぎながら石段を上っていくので、さらに力強く感じられる。かなり急な斜面をならして、そこにお堂を建てているという印象である。西院伽藍の北側になぜこうした本格的な仏堂を加えることになったのか。この法隆寺上堂については未詳な点があり、それがこの建物と仏像にミステリアスな魅力を加えている。

このお堂は普明寺というお寺の堂を移したものというのが有力な説となっている。普明寺は京都の南の深草の地にかつてあった寺といい、真言宗の僧で醍醐寺の開祖としても知られる聖宝(しょうぼう)が亡くなったところとされる。
上堂の本尊は平安時代の堂々たる仏像である。上堂が普明寺の旧堂であるとして、本尊もお堂とともに法隆寺にやってきたのか、それとも移築後に新造されたのかはわからない。だが、この仏像の堂々たる姿は、醍醐寺上醍醐薬師堂本尊薬師三尊像の中尊像を想起させる。年代が近いためであろうが、両者は聖宝によってつながっているという推測も成り立つかもしれない。
また、法隆寺西院の大講堂は925年に焼失し、990年に再建されるまで、数十年間講堂がなかったため、その間はこのお堂がその代替としての役割を果たしたのかもしれない。上堂本尊の造立時期もその頃、すなわち10世紀半ばごろにおくことができそうである。

ところで、当初の上堂は10世紀末に倒れ、再建された堂もまたそのおよそ100年後に倒壊してしまったと記録にある。せっかく再建されたお堂が100年あまりでまた倒れるというのはやや腑に落ちない。何らかの原因があってのことなのだろうか。本尊はさいわい助け出され、客仏として長く講堂に安置されていたという。
鎌倉時代末期の14世紀前半になって現在の上堂がつくられ、仏像は戻された。堂内の四天王像はこの再建時の作である。


拝観の環境
拝観は堂内の外陣から


仏像の印象
本尊の釈迦三尊像は、中尊、脇侍ともに坐像の3尊像である。
中尊の釈迦如来像は、盧舎那仏とよばれていた時期もあったらしい。脇侍は普賢、文殊とされているが、手先は後補であり、当初からそのように呼ばれていたかどうかは確定できない。もし当初から文殊、普賢として造立されたのであれば、この三尊のセットしては古いものということができる。
中尊が像高約230センチ、脇侍像が約150センチで、ともにサクラ材を主とした一木造だが、部分的にヒノキ材も使用されているという。背中からクリを浅めに入れているが、右の脇侍像では背刳りとは別に前面を割り放して前面からもクリを入れているのは珍しい。

どっしりとして実に神秘的な仏像である。肉髻は地髪から自然の盛り上がりをみせ、螺髪は大粒で、頭部を大きく見せている。その螺髪だが、積み重ねられているように見える付け方が独特で、とても印象的である。顔は四角張り、目鼻立ちを大きくして、厳しい表情をしている。
体躯も四角張り、非常に堂々としている。左手は上に向けて左膝の上に乗せ、右手はてのひらをこちらに向ける施無畏印である。左の脇腹を包む衣は体にそってうねりを加えながらひだを刻んでいる。
脚部にはほぼ同心円上に描いたような衣のひだが深く刻まれている。右足を上にして組む。
このどっしりとした像のつくりは、いかにも平安時代前期から中期のころ、普明寺からお堂が移されてきたとされる10世紀半ばごろの作としてふさわしい。

脇侍像も重厚な体躯が魅力的である。
持物としては、左脇時が剣と巻物を持ち、右脇侍は両手で如意の柄を持つが、手や持物は後補である。中尊と同様の雰囲気があり、同時一具の作と思われるが、この2躰は丸顔でやや小さめの顔をしている。まげは太く、あまり高くしない。目鼻立ちは大きく、胸や腹は重量感があり、脚部の衣がひだを深く彫り込んでいる様子も中尊像と同様である。

3躰とも二重円相の光背(周縁部は失われている)をつけ、四角い台座(後補)に乗る。


その他(上堂安置の四天王像について)
四天王像は史料と銘文で、造像年や作者が知られている。
南北朝時代の1355年に完成したもので、作者は持国天、増長天が寛慶、広目天が順慶、多聞天が幸禅の作とわかる。像高は約170センチで、迫力のある四天王像である。
姿は大仏殿様の四天王像に準じている。持国天、増長天が他の2像よりもさっそうとしており、後ろの2像の方がややもっさりしている。全体にそつなくまとめられているが、やや卑俗に流れれているきらいがある。


さらに知りたい時は…

『十世紀の彫刻』(『日本の美術』479)、伊東史朗、至文堂、2006年4月

『奈良六大寺大観(補訂版)』1、岩波書店、2001年
『奈良六大寺大観(補訂版)』2、岩波書店、1999年
「法隆寺上御堂釈迦三尊像に就いて」(『静岡大学教育学部研究報告 人文・社会科学篇』43、大宮康男、1993年3月
「普明寺堂の法隆寺移建について」(『仏教芸術』84)、太田博太郎、1972年3月


仏像探訪記/奈良県