醍醐寺霊宝館の薬師三尊像

春・秋の時期に拝観できる

住所

京都市伏見区醍醐東大路町22

 

 

訪問日 

2008年11月17日、 2019年11月3日 

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

醍醐寺・寺宝/文化財

 

 

 

拝観までの道

醍醐寺は、京都市営地下鉄東西線の醍醐駅下車、東へ徒歩約10分のところにある。

または、山科駅と京阪六地蔵駅を結ぶ京阪バスで「醍醐寺前」下車。

 

京阪バス

 

醍醐寺にはかつては南大門があったらしいが、現在では西側の総門から入る。すぐ左が三宝院で、霊宝館(れいほうかん)は三宝院の前を南に入ると左側に入口がある。

霊宝館は本館、平成館、仏像棟に分かれる。春、秋以外の通常期は部分的に開くが、全部が開かれるのは春(3月下旬〜5月上旬)と秋(10月上旬〜12月上旬)ということになっているらしい。詳しくはお寺にお問い合わせを。

 

醍醐寺ホームページ・拝観時間/料金

 

 

拝観料

霊宝館拝観料は500円以上(文化財維持寄付金として)

 

 

お寺や仏像のいわれ

醍醐寺は近代、廃仏毀釈など衰退の危機を迎えたが、寺内の文化財や古記録が散逸することのないよう地道な努力が重ねられたことは特筆に値する。

1930年には霊宝館を設けて寺宝の保全がはかられ、1935年からは一般公開も行われた。戦前の寺院の収蔵庫兼展示施設としてはすぐれたものであったそうだが、手狭になったということで、2001年には新館が開かれた。

 

ところで、この霊宝館やその東側にある金堂、五重塔などの寺域を下醍醐と呼ぶ。これに対し、そこからさらに東、醍醐山(笠取山)の山中に上醍醐がある。下醍醐から徒歩で1時間以上かかるのだそうだ。

醍醐寺の発祥の地は上醍醐である。

9世紀後半、空海の弟子であり実弟でもある真雅(しんが)の門弟であった真言の高僧、聖宝(しょうぼう)が瑞雲たなびく山に分け入ると、山頂近くに泉が湧いていて、翁がその水を「醍醐味である」と讃えていた。聖宝がここに寺を構える希望を伝えると、翁はこの地の神であると名乗り(横尾明神)、守り神となると約したという。

やがて聖宝はこの地に如意輪観音と准胝観音をまつった。これが醍醐寺のはじまりであり、その寺名は「醍醐味」つまり「神の水の妙なる味わい」から来ている。

 

はじめ私寺としてスタートした醍醐寺だが、やがて皇室からの尊崇を受けるようになり、醍醐天皇の発願により薬師堂がつくられた。また、その西の山麓にも伽藍がつくられて、山上の伽藍を上醍醐、山下の伽藍を下醍醐と呼ぶようになった。

このように山岳寺院として成立し、のち山下にも寺域を広げた寺院は他にもあるが、今日に至るも上・下両伽藍ともにこれほどの規模で続く寺院はここ醍醐寺のみと言ってよい。

 

さて、その上醍醐薬師堂だが、初代の堂は老朽化して失われ、現在のものは12世紀の再建である。しかし、本尊の薬師三尊像は当初のもの、すなわち醍醐天皇の命により10世紀初頭につくられた平安前期彫刻の代表作とされる。

この像は拝観ができるのか、上醍醐の薬師堂は通常開扉されているのかが分からず、積極的にお寺に問い合わせてみないままにいたずらに日を重ね、ついに筆者は本来の上醍醐の地でこの仏さまにお会いする機会を逸した。というのも、2000年、この薬師三尊像は山を下り、霊宝館へ遷座と相なったからである。険しい山道を人力で降ろされたのだという。

最近も上醍醐の准胝堂が落雷のために炎上したということがあったが、千年以上奇跡のように伝来した仏像をこの後も永く伝えてゆくために耐火建築の宝物館に移すことは必要な措置というべきであろう。こうした経緯で、現在この上醍醐薬師堂本尊の薬師三尊像は霊宝館に安置されている。

 

 

新しい醍醐寺霊宝館の展示室

霊宝館は3つの部分からなっている。手前が本館、奥が平成館、そしてその南側にある別棟(仏像棟)である。

上醍醐薬師堂本尊の薬師三尊像は、平成館の左手一番奥に安置されている(常設)。

 

 

拝観の環境

薬師三尊像はガラスなしの展示だが、奥まった位置のため、若干距離がある。

 

 

仏像の印象など

中尊の薬師如来像は像高約180センチの坐像。カヤの一木造とされる。

大きい頭部、首はあるかないかという感じで、体躯は太つくりである。手は長く、また突き出す右手の手首の曲がり方は独特である。手が前に出ている分、両ひざも大きく張り出し、もし真上から見ることができたら、像の形はみごとな三角形を形成していることと思う。

足をくるむ衣の襞(ひだ)は太く大きく平行線のように刻まれる。足先まで袈裟で覆っているのは珍しいが、奈良時代の仏像には例がある。顔は鼻が大きく、林厳そのものである。

螺髪は後補であるのが残念であるが、平安前期彫刻では螺髪を貼り付けているものが多く、歴史の流れの中で失われてしまうことがままある。全身の箔も後補。光背には小薬師仏が6体付けられているが、本体と合わせて七仏薬師を表していると思われる。

 

すばらしい仏像である。写真で見ると、後補の漆箔がやや沈鬱な色であることも手伝って、重苦しい印象であるが、実際に拝観するとすごい力で迫ってくる感じで、確かに日本の仏像彫刻を代表する像であると実感できる。

 

脇侍像は同じ一木造であるが、用材はヒノキかとされる(ヒノキとカヤは同じ針葉樹林の中でも木材として用いられるときわめて似ており、肉眼では区別がつきにくい)。像高約120センチの立像で、中尊に比べて小さな脇侍である(中尊は丈六の4分の3くらいの大きさで、脇侍は等身の4分の3くらいの大きさであるとみることができる)。また、全体の印象としては雰囲気は中尊と共通するが、あえて言えば大人しい作風といえる。しかし、本来中尊と一具でなかったと言えるほどの差異はない。

 

像は907年より醍醐寺を草創した聖宝によって造りはじめられたが、やがて聖宝は亡くなり、後継者の観賢(かんげん)に引き継がれて、912年までに完成した。

作者は、聖宝の弟子の会理(えり)であるという伝承がある。会理は彫刻にも絵画にも長けていたといい、この像を直接刻んだ、あるいは造像を指導したと言われるが、こうした伝は中世以後のものであり、史実といえるかどうか判断は難しい。

 

 

さらに知りたい時は…

『京都・醍醐寺 真言密教の宇宙』(展覧会図録)、サントリー美術館ほか、2018年

『醍醐寺の仏像』1、総本山醍醐寺、勉誠出版、2018年

『週刊朝日百科 国宝の美』24、朝日新聞出版、2010年2月

『十世紀の彫刻』(『日本の美術』479)、伊東史朗、至文堂、2006年4月

『醍醐寺大観』、岩波書店、2002年

『国宝醍醐寺展』(展覧会図録)、東京国立博物館、2001年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 重要作品篇』5、中央公論美術出版、1997年

『聖宝』、佐伯有清、吉川弘文館、1991年

 

 

仏像探訪記/京都市