松虫寺の七仏薬師像

  貴重な七仏薬師の遺例

住所

印西市松虫7

 

 

訪問日 

2009年4月26日 

 

 

 

拝観までの道

松虫寺は北総線の印旛日本医大駅下車、東へ徒歩約15分。駅の近くは急ピッチで造成が進められているが、お寺の周辺にはまだ昔ながらの村の風情が残っている。

本尊は七仏薬師像で、本堂の斜めうしろの収蔵庫に安置されている。もと33年に一度開扉の秘仏であったそうだ。

以前は事前予約で拝観できたのだが、2016年3月にいただいた知人からの情報によるとによると、現在は公開を行っていないとのこと。

 

 

拝観料

志納

 

 

お寺や仏像のいわれ

寺伝によると、重い病を患った聖武天皇の皇女松虫姫は、夢のお告げでこの地方に下り薬師仏に祈って平癒したので、天皇は行基に命じて七仏薬師を刻ませ、一寺を建立したのがこの松虫寺という。なお、松虫姫は不破内親王の別名で、奈良朝の政争に翻弄された実在の人物である。

奈良時代に創建された当初は三論宗であったというが、その後天台宗、真言宗と宗派を変えて今に至っている。中世には千葉氏の庇護のもとに栄え、戦国時代には僧兵をたくわえて後北条氏軍と戦ったそうだ。江戸時代には天領であったため幕府の保護があり、本堂の再建も幕府の肝入りで行われたという。

 

本尊は七仏薬師像である。

七体の薬師如来像を造像し礼拝するという信仰がある。玄奘訳の「薬師如来本願経」、義浄訳の「七仏薬師経」にその記述があり、日本でもこれに基づく造像がなされている。

しかし、その多くが奈良・新薬師寺の薬師如来坐像のように薬師像の光背に七仏薬師の化仏をつけるというもので、実際に七躰の薬師像をつくるという例は少ない。その少数の例の中では、滋賀・鶏足寺己高閣やこの松虫寺の像がよく知られる。鶏足寺の像は3尺の立像を7躰セットにするものであり、この松虫寺のものはやや大きな坐像を真ん中に小像の立像を左右に3躰ずつ配するというタイプである。

 

 

拝観の環境

収蔵庫の中まで入れていただける。やや暗いが、間近で拝観できる。

 

 

仏像の印象

像高は中尊、すなわち七躰の薬師像のうちの中央像が50センチ余の坐像、脇仏が40センチ弱の立像で、カヤの一木造。彩色等ほどこさない白木の像である。

中尊は硬い表情、面長だが頬には張りがある。 肉髻は低くつくり、手はやや小さくあらわされる。肩から襟にかけて衣の厚みが表現される。下半身の衣は彫りが深く、力強い。

光背は失われているが、台座は幸いにも当初のもので、細かで美しい彫りのものである。

脇仏6躰はほぼ同じ姿であらわされる。像高に対して横幅がしっかりとられ、また股間へと流れる衣文の襞は平安前期彫刻の流れを踏まえている。ただし、太ももの厚みや衣の線はあまり大げさでなく、形式化が進んでいるように思える。中尊同様襟元の衣が立つように強調されているが、神威というかそうした雰囲気を伝えている。

 

七仏薬師法は奈良時代から行われていたようだが、天台宗において良源がこの法を重視したことから、さかんに行われるようになったとされている。松虫寺はもと天台宗寺院であり、伝来する七仏薬師像の貴重な例として、天台宗関係の特別展などで展示されたことがある。

この七仏薬師像の顔つきは硬いというか渋いというか、慈悲深さといった雰囲気からは遠く、以前博物館でお会いした際にはとまどいを感じた。

しかし、薬師如来、特にそれを7躰も揃えて造像するのはこの仏のもつ極めて強い呪力を求めてのことであり、その表情が穏やかさより厳しさをたたえているのは当然のことと考えると、この仏像のもつ威厳が印象深く感じられるようになった。また、今回は博物館とは異りやや暗い中での拝観で、そのためにかえって表情の硬さが減じて、とてもよく拝観できた。

 

 

造像年代について

従来、特徴や構造が平安前期木彫に近いものがあり、形式化がみられることを加味して、平安後期の作とされることが多かった。

しかし、中尊の台座蓮弁に細かく刻まれた弁脈(花びらに線が浮き出ている)は鎌倉時代の彫刻の特色である。確かに中尊の下半身を包む衣のダイナミックな流れは鎌倉彫刻らしい感じがする。

 

 

さらに知りたい時は…

『最澄と天台の国宝』(展覧会図録)、京都国立博物館・東京国立博物館、2005年

『古密教 日本密教の胎動』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2005年

『房総の神と仏』(展覧会図録)、千葉市美術館、1999年

『薬師如来像』(『日本の美術』242)、伊東史朗、至文堂、1986年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代・造像銘記篇』8、中央公論美術出版、1971年

 

 

仏像探訪記/千葉県