寂照院の四天王像

  鎌倉前期、院派による造像

増長天像
増長天像

住所

長岡京市奥海印寺明神前31

 

 

訪問日 

2009年7月18日

 

 

 

拝観までの道

JR長岡京駅または阪急長岡天神駅から阪急バスで「明神前」バス停下車、徒歩3分。

 

阪急バス

 

仏像拝観は予約が必要。

 

 

拝観料

入山料100円。拝観料は志納。

 

 

お寺のいわれ

この付近には海印寺、あるいは奥海印寺の地名がある。これはかつて栄えたお寺の名前である。

海印寺は南都出身の道雄という僧が9世紀に創建し、定額寺、すなわち官寺に準じた扱いを受けたことが史料(『文徳実録』『類聚三代格』『延喜式』等)から分かる。

鎌倉時代に東大寺の宗性(そうしょう)によって再興され、中世には東大寺尊勝院の末寺であった。織田信長に擁立されて上洛した足利義昭がこの寺を宿舎にしたということもあったという。

近世には衰微し、10あったとされる子院のうちの1院、すなわちこの寂照院だけが残り、法灯を受け継ぐ。

 

仁王門をくぐると正面が本堂。境内は整備され、お堂も耐火建築の新しいものだが、現在のような姿になったのは今のご住職の代になってからとのこと。それ以前は近所の方も近づかないような荒れ方であったという。ここに至るまでにはずいぶんとご苦労があったようだ。

 

 

拝観の環境

お堂の中は明るく、よく拝観できる。ただし、千手観音像と四天王像までは若干距離があり、間近でというわけにはいかない。

 

 

四天王像について

本堂の仏像は本尊の千手観音坐像と四天王像が正面の壇上に、その左右に妙見菩薩像、不動明王像が安置される。

 

四天王像は比較的小ぶりな像で、像高は各110センチ余り、材はヒノキ、彫眼である。

向って左前列の増長天像は、口をやや開け、右手を大きく上げて体を開き、腰をひねる。動きのある姿勢に対して下半身を大きくつくってバランスをとっていて、なかなか達者なつくりである。割矧(わりは)ぎ造。

この像の像内背中側に銘文があり、鎌倉前期の1217年に摂津国の僧良心らが中心となり、仏師院能につくらせたということがわかる。年、願主、作者のすべてが明記された貴重な銘文である。

作者の院能は名前から院派に属する仏師と考えられ、院派による天部像の作例として重要である。一般に革新的な慶派に対して保守的な院派ととらえられがちだが、この像はなかなか躍動的であり、院派の作ゆきの幅を感じる。

残念ながら願主の良心については分からない。また、本来海印寺もしくは寂照院の像として造立されたものかどうかも不明である。

 

持国天像は手を前で交差させていて、このポーズの像は興福寺北円堂の持国天像などの例はあるが、珍しい。口をややあけ、歯を見せているのが印象的である。増長天像と同様、割矧ぎ造。

広目天は筆と巻物を持つ。この姿は古代の四天王像に多く見られるので、古様であるといえる。下半身は細身。一木造。

多聞天像は他の像と比較して丸顔で、寄木造。比較的動きが少ない像である。

 

おそらく持国天と増長天は同作だが、あとの2像は別作と思われる。しかし全体としてはバランスよく、像高も揃っている。何らかの事情で平安時代後期作の四天王のうちの一部が残り、鎌倉時代に持国天像・増長天像が補われる形で四天王像一具としたのかもしれない。

台座に江戸中期の修理銘がある。4躰ともほぼ同文で、少なくともこの時点で4像はセットになっていた。なお、像名は書かれていず、現在の呼称は推定である。

 

 

千手観音像と仁王像

本尊の千手観音像は70センチあまりの坐像。中世の作と考えられてきたが、顔面は古代なのではないかという指摘がある(体は中世の補作。頭上面や脇手などはさらにあとの修補)。確かに顔のみ見ると、東寺講堂の梵天像に印象が似る。平安前期すなわち海印寺創建当初像である可能性がある。

 

仁王門にたつ仁王像は、像高約240センチ。激しい怒りをあらわした力強い像である。

像内には経典、諷誦文(ふじゅもん、供養のために法会で読み上げられる文章)、勧進奉加帳、結縁交名などの納入品があった。江戸時代の修理時に一部が取り出され、また1965年の解体修理の際にも別の文書が発見された。

納入品の文書から、造像年が南北朝時代の1344年の作とわかった。

造像の目的としては、祖霊を弔うとともに、造像に参加した人々が兜率天(とそつてん、弥勒の浄土)往生を果たせるようにと願うというものである。

上述のように、寂照院の前身である海印寺は東大寺の宗性によって再興されたが、この宗性は弥勒信仰を強く持っていたことで知られる。この仁王像は宗性による再興から80年くらいあとだが、弥勒信仰がこの寺に生き続けていたことがわかる。

また、近郊の人々数百人が協力し、資金が集められていることも知られる。その結縁交名は鎌倉幕府によって制定された御成敗式目の写しの裏に書かれている。これは反故紙を用いたというよりは、御成敗式目が一種特別な存在、仏への結縁を書き記すのにふさわしい用紙であると考えられていたものと思われる。

 

 

その他

本堂の裏手に古墳の石室が保存されていて、見学できる。本堂の建て替えの際に出てきたもので、この保存のためにお堂の設計を変更したそうだ。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』3、中央公論美術出版、2005年

『長岡京市の寺社(長岡京市史資料集成2)』、長岡京市教育委員会、2000年

『京都の文化財』第15集、京都府教育委員会、1998年

「千手観音坐像・四天王立像」(『学叢』20)、伊東史朗、1997年

『中世寺院の風景』、細川涼一、新曜社、1997年

『長岡京市史 本文編』1、 長岡京市史編さん委員会、1996年

『長岡京市史 建築・美術編』、 長岡京市史編さん委員会、1994年

『寂照院総合調査報告書』、長岡京市教育委員会、1985年

「寂照院の仏像」(『国華』947)、中野玄三、1972年7月

 

 

仏像探訪記/京都府