興福寺北円堂の諸像

  例年、春と秋の時期に公開

住所

奈良市登大路町48

 

 

訪問日 

2012年5月6日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

興福寺 寺宝、文化財    

 

 

拝観までの道

北円堂は近鉄奈良駅から東へすぐ。入口は南側にある。

通常は非公開で、例年春秋の時期に開かれる。2012年の春は、ゴールデンウィークの時期に9日間開扉されていた。

 

 

拝観料

300円

 

 

お堂や仏像のいわれなど

興福寺には北円堂と南円堂という2つの八角円堂がある。北円堂は南円堂にくらべひとまわり小さく、高さも低い。鎌倉期再興の建築で、落ち着きのある優美な建物である。

 

このお堂は、奈良時代初期、藤原不比等の追善のために創建された。本尊は弥勒像で、ほかに、両脇侍像、羅漢像2躯、四天王像のあわせて9躰が安置され、塑造であったらしい。

創建時の堂・像は11世紀なかばに焼失、中尊の頭部のみ救出された。まもなく再興され、頭部のみとなった古仏は新造仏の像内に籠められたと記録にある。

 

この再建北円堂と安置仏も、12世紀に焼失してしまう。

1180年、平氏が放った火によって興福寺はほぼ全焼、北円堂も焼け落ちた。まもなく復興が取り組まれたが、北円堂の再建はどうしたことか他の堂よりも遅くなってしまい、ようやく1210年ごろに果たされた。仏像は1208年につくられはじめ、仏師は法印運慶であったと記録にある。

この時期、九条兼実とその子九条良経は相次いで死去し、復興の中心人物は関白・近衛家実に移っていた。

 

造仏の経緯は、近衛家実の日記『猪隈関白記』、および弥勒像台座内の銘文(戦前の修理時に発見)によって、かなりよくわかっている。

この時運慶一門が手がけた北円堂内安置仏は創建当初とまったく同じ組み合わせ、すなわち弥勒三尊像、二羅漢像(無著、世親像)、四天王像の9躰であった。

各像の担当仏師は、運慶の子どもたちと一門の実力派の仏師たちで、運慶が棟梁として彼らを率いていたと考えられている。

 

中尊の弥勒像は、源慶と静慶(もしくは浄慶)が担当した。いずれも慶派の古参仏師で、ことに源慶は吉野・如意輪寺の蔵王権現像の作者として知られ、すぐれた技量を持った仏師であることがわかっている。『猪隈関白記』には「中尊三人」とも書かれ、もう一名、すなわち統率者である運慶が加わってつくられたことがほのめかされている。

 

運慶には男子が6人あり、長子で後継者ある湛慶をはじめ、いずれも仏師として活躍したことが知られる。北円堂の造仏にあたり、6人の子息は四天王、無著(むちゃく)、世親(せしん)の各像を1躰ずつ割り振られた(と思われる)。脇侍の菩薩像は一門の古参仏師である運覚と、もうひとり(銘文の文字が判読不能)が担当した。

 

その後北円堂は火災にあうことなく、鎌倉期再建の姿をとどめている。しかしながら、中に安置されている仏像は、両脇侍像と四天王像が入れ替わり、運慶一門の作は中尊の弥勒仏と無著、世親像だけになってしまっているのは、まことに残念なことである。

両脇侍像は室町時代ごろの作で、中尊に比べてあきらかに作ゆきは劣る。

四天王像は、近代の廃仏の時期の混乱によるものであろうか、平安時代前期の一木造の像にかわっている。

 

 

拝観の環境

堂内、中央の壇をめぐりながら拝観できる。

像までの距離が近く、それほど広くない堂内だが、像同士が重なりあわないように安置され、また照明の状態もよく、さらに外からの光も入って、たいへんよく拝観できる。

 

 

弥勒仏坐像について

中尊の弥勒仏像は像高約140センチ。半丈六坐像である。

菩薩形でなく、はるか未来に成道した弥勒の如来としての姿を表現した像である。

カツラ材を用いた寄木造で、彫眼。堂々とした頭部、上半身に対して、脚部はやや低い。顔に一部残る金箔のために表情が分りにくくなっているが、目は比較的しっかりと見開き、ほおや口もとの凹凸がしっかりと彫りだされていて、力強い印象である。髪際は中央で若干カーブする。手の構えは自然で、衣はあちこち反転してやや装飾的にも感じられるが、全体に破綻、誇張なく、衣の襞(ひだ)の流れも自然である。胸から腹にかけて左肩からつった下着を見せるが、これは古代の造形を取り入れたものと思われる。

 

運慶は12世紀半ばの生まれと推定されているので、 この北円堂の諸仏をつくり上げた時、50代半ばから60歳くらいであった。この北円堂の弥勒仏を直接に担当したのは、すでに述べたように一門の源慶らであるが、統率者であった運慶の造形が十分に反映されているとして、たとえば30代の作である中伊豆・願成就院の阿弥陀如来坐像などと比べたとき、どのようなことがわかるだろうか。

一見して感じるのは、願成就院像は体の厚みがあり、また衣の線が極めて力強い。特に 襞が連なるさまは、写実をこえて、仏の中から渦を巻きながらほとばしり出るパワーをあらわしているようである。

それに対して北円堂の弥勒仏では、体の厚さ、また衣の流れは、いずれもおとなしく、何となく物足りなさも感じる。

しかし、筆者は、ある時から、それこそが北円堂像の素晴らしさであると感じるようになった。すなわち、後半生の運慶は、いかに生き生きと襞を刻むかといった技巧で勝負することをやめても、像の内側から自然にわき出す仏の存在感を表現できるまでにのぼりつめたのではないか。

襞の強い流れに頼らない造形美の到達点、それがこの弥勒仏坐像である。

 

 

無著・世親像について

無著、世親像は像高各190センチをこえる堂々たる僧形立像である。カツラの寄木造で玉眼。

担当の仏師は、弥勒仏台座の銘(判読できない部分もあるのだが)からの推測として、運慶の5男と6男である運賀、運助と考えられている。

 

無着、世親は5世紀ごろ北インドに実在したとされる兄弟であり、法相教学を確立した高僧である。無著は兜率天の弥勒菩薩のもとに参じたという伝説があり、これによって弥勒仏に随侍する像としてつくられたらしい。

向って右が兄の無著で、老相、手には箱を持つ。向って左の世親は、壮年の姿である。持物は失われている。

ともに的確で存在感のある人体の表現がたいへん魅力的である。

 

 

四天王像について

北円堂壇上で、弥勒三尊像、無著・世親像を囲んで立つ四天王像は、他の像よりもずっと古い。

北円堂には、もと、鎌倉復興期の四天王があったのだが、いつのころか入れ替わってしまったのである。現在興福寺中金堂に安置されている四天王像が、本来北円堂のものであったとする説がある。

 

現在の北円堂四天王像は、銘文から大安寺の像であったことが知られる。

銘文は増長天と多聞天の台座天板裏面に墨書されていて、鎌倉時代後期の修理銘であるが、そこに791年、すなわち奈良末〜平安初期の時代の作であること、大安寺の像であること、破損が非常に進んでいたために1285年に興福寺僧経玄が修理にあたったことが書かれている。

この像が本当に791年の作であるのか、本当のところそれを裏付ける材料はない。だが、修理銘には当時何らか根拠となるものがあったのではないかとも推測でき、この四天王像は平安期在銘彫刻のトップを飾るという輝かしい位置づけが与えられている。

 

像高は135センチ〜139センチと、比較的小ぶりな像ではあるが、堂々とした体躯のために大きく見える。

木心乾漆造。ヒノキの木心に麻布をはり、その上から漆で肉付けをするという技法でつくられている。ただし、面相部などはほとんど木彫で仕上げて、部分的に乾漆を使って整えている。奈良時代の乾漆像と平安時代の木彫像の間に位置するような感じで、791年の作であるという銘文記事はうなずけるところである。天衣などは鉄を芯にして漆で成形している。

岩座上の邪鬼に乗る。

後補部分もあるが、全体的には当初の状態をよく残す。彩色は鎌倉修理時のものと思われる。

 

各像は頭部が小さく、腰まわりなど太い肉付けをしている。大げさでない程度に体をひねり、太づくりの割に像に軽快感をかもし出す。顔は異国の偉丈夫を思わせる。どことなくユーモラスだが、卑俗に流れてはいない。

持国天像は両腕を交差させる面白い形。この姿の持国天像は、浄瑠璃寺吉祥天厨子絵(鎌倉時代前期、現在は東京藝術大学蔵)など、他に作例がないわけではないが、珍しい。

増長天、広目天は片腕を上げ、体を開く。多聞天は、てのひらを開いて顔の横で宝塔(亡失)を掲げる様子がおかしみを誘う。

ユニークですぐれた四天王像である。

 

 

さらに知りたい時は…

『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2017年

「特集 オールアバウト運慶」(『芸術新潮』2017年10月号)

『奈良・京都の古寺めぐり』、水野敬三郎、岩波ジュニア新書、2012年(改版発行)

『興福寺 美術史研究のあゆみ』、大橋一章・片岡直樹編、里文出版、2011年

『運慶』(『別冊太陽 日本のこころ』176)、平凡社、2010年12月

『週刊朝日百科 国宝の美』27、朝日新聞出版、2010年2月

『興福寺国宝展』(展覧会図録)、東京藝術大学大学美術館など、2004年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』2、中央公論美術出版、2004年

「『包み』のイコノロジー」(『南都仏教』84)、熊田由美子、2004年

『奈良六大寺大観(補訂版)』8、岩波書店、2000年

『奈良六大寺大観(補訂版)』7、岩波書店、1999年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』1、中央公論美術出版、1966年

 

 

仏像探訪記/奈良市