宝積寺の十一面観音像

  鎌倉前期、院派仏師正系の造像

住所

大山崎町大山崎銭原1

 

 

訪問日 

2012年9月2日、 2019年8月18日

 

 

 

拝観までの道

宝積寺(ほうしゃくじ)は、東海道線の山崎駅から徒歩約10分。阪急京都本線の大山崎駅からも歩ける。

山崎駅からJRの線路沿いを東へ。最初の踏切で北側に渡り、西北方向へと坂道を上って行く。

 

 

拝観料

400円(本堂と閻魔堂で)

 

 

お寺のいわれ

奈良時代、行基草創と伝える。行基草創をうたう寺院は多いが、実際に行基によって山崎院という寺院が開かれているようで、宝積寺はその後身である可能性がある。通称宝寺といい、平安貴族の大江匡房(まさふさ)の著作に名前が見え、また鎌倉初期には藤原定家もここを訪れていることが、その日記『明月記』に記されている。

中世、山崎は油座によって繁栄するが、宝積寺もそうした背景で栄えたらしい。近世には上述のように山崎の合戦があり、秀吉の陣が敷かれた。幕末には尊王攘夷派の陣地が築かれるなど、その歩みは歴史上の事件と密接に結びついてきた。

 

 

拝観の環境

堂内でよく拝観させていただけた。 

 

 

仏像の印象

本尊の十一面観音像は、ヒノキの寄木造、彫眼。像高約180センチとほぼ等身大の立像である。

堂内はやや暗く、細部まではなかなかわかりにくいが、実に整ったお姿の像である。顔つきは弾力が感じられるようで、生き生きとしている。特に口もとが引き締まり、くちびるがやや突き出したようにつくられている様子は、顔つきに生気を与えている。

また、下半身を長くとって、プロポーションがよい。

下肢を横切る天衣が互いに絡んでW型となり、また小さな渦巻きのような文様がつくられているのは古様で、古仏の様式を取り入れたものでもあろうか。

 

保存状態は全般的によい。台座はほぼ後補となっているが、光背はとりつけられた三十三応現神像を含め、当初部分が多い。

 

堂内から豊富な納入品が見つかっていて、作者名、造像年、そして関係者の名前がわかっている点でも貴重である。

それによれば、制作年は鎌倉前期の1233年。前年の1232年に宝積寺は焼けたという記録があるので、再興像としてつくられたと考えられる。納入品によれば、非常に多くの人々の合力があって造立されたとわかる。

 

 

仏師について

納入品の中に小さなヒノキの木片が2片あり、造像の際に生じた木屑を使ったものかと思われる。そのそれぞれに仏師名が記される。ひとつが大仏師法印院範、もうひとつには法橋院雲とある。

このうち院雲については、他に記録が知られない。

 

一方、院範だが、鎌倉初期の南都復興事業で法印院尊に従い、東大寺大仏光背化仏の制作にたずさわったことが知られている(1194年)。院尊は当時の造仏界の頂点にあった仏師で、残念ながら確実な遺作はないが、京都・長講堂の阿弥陀三尊像が彼の作である可能性がある。そのころ院範は法橋という位にあった。

院範の他の事蹟は、記録上には現れるのだが、現存作品としてはこの宝積寺の本尊像のみである。生年は不詳だが、おそらく東大寺大仏光背制作の時に30歳くらい、この宝積寺本尊像造立の時には、70歳くらいであったのではないかと思われる。運慶よりは年下、その子湛慶よりは年上といった世代である。

 

鎌倉前期の仏師といえばすぐに思い浮かぶのは、康慶、運慶、快慶、湛慶など慶派の仏師たちである。院派、円派の仏師たちも慶派の作家と競うようにしてノミをふるったはずなのだが、どういうわけか彼らの作品はあまり残っていない。

その中で、院範のこの宝積寺の十一面観音像は、鎌倉前期院派正系作家の造像としてきわめて貴重なものといえる。

 

 

その他

宝積寺閻魔堂(収蔵庫)と仁王門の仏像については、宝積寺の閻魔像、冥府役人像の項をご覧ください。

 

 

さらに知りたい時は…

「仏師と仏像を訪ねて8 院範」(『本郷』141)、武笠朗、2019年5月

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』5、中央公論美術出版、2007年

『仏像と人の歴史発見』、清水眞澄、里文出版、1999年

『中世彫刻史の研究』、清水眞澄、有隣堂、1988年

『大山崎町史 本文編』、大山崎町史編纂委員会、1983年

 

 

仏像探訪記/京都府