長講堂の阿弥陀三尊像

  後白河院の持仏堂本尊

住所

京都市下京区本塩竈町528

 

 

訪問日 

2011年3月27日

 

 

 

拝観までの道

最寄り駅は京都市営地下鉄の五条だが、京都駅からも歩ける距離(京都駅烏丸口より北北東に徒歩約20分)。

拝観は事前予約必要。

 

 

拝観料

志納

 

 

お寺や仏像のいわれ

長講堂といえば、「長講堂領」という言葉が思い浮かぶ。八条院領とともに寄進地系荘園の代表で、院によって創始され、代々天皇家で受け継がれて、その財政的基盤として機能した。

長講堂は正式名称を「法華長講弥陀三昧堂」といい、院の御所である六条殿に設けられた後白河院の仏堂であった(それ以前の法住寺殿にも同名のお堂があったともいう)。ひとつのお堂が当時最大級の荘園の持ち主だったというのも不思議な話であるが、現在と土地所有の概念がまったく異なっていた時代の話である。

 

1183年、源平の合戦のさなかのこと、後白河院の御所・法住寺殿が木曾義仲のために焼かれてしまったので、同年、院は六条殿に移り、その中に長講堂を営んだ。しかしその六条殿も1188年に焼けてしまった。

記録によれば、この時長講堂本尊は取り出されたという(『吾妻鏡』)。ところが、別の文献によれば、同年に再建されたお堂に仏師・院尊が仏像を安置したという(『山丞記』)。

 

これら2つの記録をどう解釈すべきだろうか。本尊は焼けてしまったため院尊が新造したのか、取り出されたが損傷を負ったので院尊が修復して1188年に安置したのか、そのどちらかであろうと思われる。

 

現在の長講堂本尊は、相好円満にしてみごとな定朝様仏像であり、後白河院の持仏としてまことにふさわしい像と思われ、12世紀末以来、修理を重ねながら、ずっと長講堂の本尊であり続けていた仏像と考えられる。

すなわち、長講堂の阿弥陀三尊像は、1183年または1188年の作であり、1188年の作であるならば、その仏師は院尊ということになる。もっとも、このころ仏師中最高位にあったのは院尊であり、院が造仏を命じる仏師としては院尊が最もふさわしいので、この仏像が1183年の像であるとしても、作者は院尊である可能性が高いといえるだろう。

 

なお、長講堂は豊臣秀吉の京都市街整備のために現在地に移転し、今は浄土宗の寺院となっている。

 

 

拝観の環境

本尊・阿弥陀三尊像は西面して建つ本堂の須弥壇上に安置される。

堂内は明るく、よく拝観できる。

 

 

仏像の印象

堂々たる院政期・定朝様の仏像である。

しかしながら、厳しい歴史の転変をくぐり抜けたために、補修箇所は多い。

 

中尊の阿弥陀如来像は像高約170センチの坐像。肉髻は堂々と高く、螺髪は美しく並ぶ。顔は満月のごとく丸く、また張りがある。目は半眼。とても細い目をしている。上半身は大きく頼りがいがあり、腕はゆったりと伸びて、腹前で定印を結ぶ。

脚部は低く、衣の線も硬く、形式的で、後補と思われる。この足の部分の衣の線は当初どれほど優美なものであったろうかと想像すると、失われたことがとても残念である。

 

脇侍像は像高約1メートル。 全体に若々しい雰囲気で、姿勢よく、衣の流れも優美な仏像である。 蓮台を持つ観音像と合掌する勢至像だが、観音像の方に多く後世の手が入っているようだ。

外側の足を蓮台からおろし、踏み下げているのが面白い(ただし踏み下げた足は後補)。

奈良時代の東大寺大仏脇侍はこの踏み下げであったことが知られ、現存するものとしては奈良・興福院の阿弥陀三尊像の脇侍などがこの形である。

長講堂の阿弥陀三尊像より三十数年前につくられている奈良・長岳寺の阿弥陀三尊像(奈良仏師の作と考えられている)もまた脇侍像が片足を踏み下げているが、この像は古代彫刻の特色を取り入れて制作されたと考えられている。長講堂像を制作した京都仏師もまた、単なる定朝様の模倣にとどまることなく、古典的な仏像を学びその特長を取り入れようとしていたのであろうか。

また、天衣の肩のところは別に作って着せるように取り付けているそうで、こうした着衣を別材でつくることは鎌倉時代になると稀に見られるが、この時代では大変珍しい。

 

 

仏師・院尊について

定朝から4代めとなる院尊は、当時の印派仏師の中心であり、造仏界全体の代表ともいうべき人物であった。兄弟子の院朝の死後、法印という仏師の最高位に登った。1120年に生まれ、1198年に死去したことが分かっており、円派の明円、慶派の康慶とは近い年代の人である。

 

興福寺の再興にあたっては講堂大仏師となり、1186年に講堂の本尊・阿弥陀三尊像を他の堂塔の仏像に先駆けていちはやく完成させている。また、源平の合戦に際し、院の命により源氏調伏の像を制作したとして、のちに頼朝の不興を買ったとも伝えられる。

ただし、興福寺講堂像は現存せず、それどころか院尊作の確実な仏像は伝来していない。この長講堂の阿弥陀三尊像は、院尊作の可能性がある唯一の仏像ということになる。

 

ところで、現存していない興福寺講堂・阿弥陀三尊像の脇侍像もまた、片足を踏み下げる形だったようだ。おそらく創建当時の像がその形式で、再興にあたってもそれを踏襲したのであろう。

そして、長講堂本尊の造像と興福寺講堂本尊の再興造仏の着手は同時期なのである。

長講堂の阿弥陀三尊像の作者もまた院尊であるという前提で考えるならば、興福寺講堂像の脇侍像を片足踏み下げの姿で造ることになったということからの影響によって、長講堂の三尊像脇侍もまた同様の姿勢の像を造ることを考えたということは十分ありうる。

 

 

その他

このお寺には後白河法皇の像も伝来している。江戸時代の作ながら優れた肖像彫刻で、毎年4月13日の午後開帳されているそうだ。

 

 

さらに知りたい時は…

『鎌倉時代の彫刻』(『日本の美術』459)、三宅久雄、至文堂、2004年

「長講堂阿弥陀三尊考」(『仏教芸術』212)、麻木脩平、1994年1月

『院政期の仏像』、京都国立博物館、1992年

 

 

仏像探訪記/京都市