同聚院の不動明王像

  康尚の作と推定されている

住所

京都市東山区本町15-799

 

 

訪問日 

2014年7月20日、 2019年3月10日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

京都・五大堂・同聚院・不動明王坐像

 

 

 

拝観までの道

同聚院(どうじゅいん)は東福寺の塔頭。広い東福寺の境内の中の北西の地区にある。

交通はJR奈良線、京阪本線の東福寺駅下車、東南へ徒歩約10分。

 

 

拝観料

200円

 

 

お寺や仏像のいわれなど

同聚院は東福寺第160世の文溪元作によって15世紀に建てられた塔頭寺院である。

その東福寺は鎌倉時代前期に摂関として活躍した公卿、九条道家によって建立された臨済宗寺院で、今も広大な寺域と多くの塔頭をもつが、この場所はそれ以前には10世紀に藤原氏によってつくられた法性寺(ほっしょうじ)の伽藍が広がっていた。

 

1005年、法性寺に五大堂がつくられ、五大明王が安置された。摂関家の全盛期、藤原道長による造仏で、その時の様子は彼の「御堂関白記」によって知られるが、残念ながら仏師名は書かれない。しかし、当時の第一級の仏師が起用されたことは疑いなく、それは康尚(こうしょう、こうじょう)であろうという推測が成り立つ。康尚は道長とほぼ活躍期が重なり、定朝の父または師であった仏師である。

 

法性寺は次第に衰退して、五大明王像もまた不動明王以外の4明王は失われてしまったが、不動明王像だけはかろうじて受け継がれた。それがこの同聚院の不動明王像と考えられている。

 

 

拝観の環境

本堂奥に安置され、近くまで進み拝観させていただける。

 

 

仏像の印象

像高は2メートル半余りの丈六の坐像である。残念ながら脚部は後補。

頭体の幹部は巨大な一材から彫り出され、左右と像底から深くくられる。これに両側面と背面に材を足して、像に厚みを加えている(この作り方は、定朝によって完成される寄木造の前段階と考えてよいであろうか)。

両眼ともに見開き、上の歯で下唇を噛み、頭は総髪とする。

 

髪の部分を大きくとり、ほおもそれほど張らないために、精悍で面長な顔つきに見える。つりあがった眉、額の筋、瞋(しん)目など、顔の部分部分がていねいに形づくられ、怒りが不自然でなく表現されている。誇張がなく、怒りの中に気品が感じられる。

胴は小細工を弄せず、胸や腹が量感豊かに、しかし肥満した感じはない。両肘はあまり張らず、これも自然な造形である。

質実な中に、頭の前の花飾りや腕のアクセサリーが花を添えている。また、条帛の端が胸のあたりから広がってさがっているのも目を引くところである。

大きくても異様でなく、不自然でなく、そっけなくもなく、みごとな存在感をもつ仏像と思う。

 

 

本像の姿について

不動明王像には大きく2つの姿がある。

ひとつは「大師様」といい、東寺講堂の五大明王像の中尊像などがその代表例である。両目とも見開き、また上の歯で下唇を噛む。髪は総髪で、頭頂に蓮華を置く(ただし東寺講堂像では頭頂の蓮華は亡失)。

一方、その後伝来した「不動十九観」に基づく像は、片目をすがめ、左右の牙を上下に出し、髪は巻き毛で、頭頂で髪を花形にかわいく結んでいる(七沙髻)。

一般的にいうと、不動明王の姿はそのどちらかということになる(両形式が混ざっているものもあるが)。

 

本像は両眼を見開き、上の歯で下唇を噛み、総髪であるので、上記の区分では大師様に近い。

しかし、さらに細かく見ていくと、本像ならではの特色が見られる。たとえば、花飾りのついた頭飾をつける、左側に垂らしている弁髪は途中に束ねる紐がつくられない、また腰帯は布状でなくベルト状であるなどの点である。

このことから、本像は平安前期の入唐僧が持ち帰った新たなモデルをもとにしている可能性がある。智証大師円珍が持ち帰った図像によってつくられているのではないかと考えられている。

「円珍請来様」不動明王像の作例は平安時代のものだけで15例ほどあるという。やや下っての作例となるが、兵庫県の神呪寺所蔵の不動明王像も「円珍請来様」によってつくられているとされる(ただし頭頂に蓮華をのせるなど、必ずしも同聚院の像と同じ姿ではない)。

 

 

2躰の小像について

丈六不動明王像の斜め前に不動明王と十一面観音の小像が安置されている。どちらも坐像である。

不動明王像は両目を見開き、上の歯で下唇を噛む姿が丈六像と同じで、その模作としてつくられたのではないかと思われる。従って丈六像の脚部を復元して考える参考になる。ただし、髪の筋や条帛の端が垂れはじめる高さ、また肘の張り具合など、細部は異なる。

安定感のある佳作である。南北朝時代ごろの作と思われる。

 

十一面観音像もまた上品な作品で、衣の襞の流れは不動明王像(小像の方の)に似て丁寧な仕上がりを見せている。丸顔、上半身を高くつくり、胴はくびれる。頂上仏面は清涼寺式釈迦像のように縄のような髪をしている。

 

 

東福寺仏殿の仏像について

同聚院から東南に進み、東福寺の大きな境内に入ると、その中心にそびえるようにして建つ立派な建物が仏殿である。内部には入れず、正面の格子越しの拝観となる(中に入れるのは涅槃会の3月14日〜16日だそうだが、この時には巨大な涅槃図が須弥壇前に掛けられ、仏像は見えなくなってしまうようようだ)。

中央の釈迦如来像は像高2メートル半を越える立像。光背台座を入れると約5メートルにもなる。目鼻立ちが大きく、異国的な雰囲気がある。近くの泉涌寺や戒光寺には宋風の仏像が伝来するが、その流れを汲んだ鎌倉時代の後期ごろの仏像と思われる。

東福寺の仏殿は五丈の大きさの仏像が本尊であったというが、1881年の火災で焼失してしまった。現在の本尊はその後に万寿寺から移されたものだそうだが、さらにそのもとをたどれば廃絶した三聖寺というお寺の本尊であった可能性がある。

 

脇侍は阿難、迦葉の両像。さらに四天王像(多聞天像は2017年に東京国立博物館で行われた運慶展に出陳された)が並ぶ。釈迦像は大きく、また顔や胸が金色であるのでなんとか見えるが、まわりの像は残念ながら一眼鏡のようなものを使ってもよく見ることは難しい。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本美術全集』4、小学館、2014年

「三井寺の不動明王像」(展覧会図録『国宝三井寺展』、大阪市立美術館ほか)、末吉武史、2008年

『藤原道長 極めた栄華・願った浄土』(展覧会図録)、京都国立博物館、2007年

『不動明王像造立一千年記念誌』、東福寺塔頭同聚院、2006年

『十世紀の彫刻』(『日本の美術』479)、伊東史朗、2006年4月

『MUSEUM』591(特集:東福寺の中世彫刻)、2004年8月

『平安時代後期の彫刻』(『日本の美術』458)、伊東史朗、至文堂、2004年7月

「同聚院不動明王像と園城寺新羅明神像」(『国華』1203)、伊東 史朗、1996年2月

『平等院と定朝』(『日本美術全集』6)、講談社、1994年

「同聚院(旧法性寺五代堂)不動明王像の造立とその意義」(『美術史』128)、山岸公基、1990年

『大仏師定朝』(『日本の美術』164)、水野敬三郎、至文堂、1980年1月

 

 

仏像探訪記/京都市