長楽寺の時宗祖師像

  南北朝〜室町時代の肖像彫刻の優品

住所

京都市東山区円山町626

 

 

訪問日 

2012年9月2日、 2023年8月25日

 

 

 

拝観までの道

バス停「祇園」より東へ10分。八坂神社、円山公園の南側を東に向うと、長楽寺(ちょうらくじ)の門前に出る。ほかに、京阪線の祇園四条駅や地下鉄の東山駅からも歩ける距離である。

お寺に向かう道は次第に上り坂となり、拝観入口からは階段をのぼる。

拝観は、改修工事のために、当面、金、土、日、祝日のみとなっている(お寺のホームページを参照してください)。

 

長楽寺ホームページ

 

 

拝観料

800円

 

 

お寺や仏像のいわれなど

長楽寺は最澄創建と伝え、当初は天台宗だったらしい。

壇ノ浦の戦で生き残った平清盛の娘、建礼門院徳子がこの寺で出家を遂げたといい、ゆかりのお寺として知られている。

南北朝時代より時宗のお寺となり、時宗の祖師の像7躯が伝わる。これらの像は、もと京都の代表的な時宗寺院であった金光寺(こんこうじ)に伝来したものといい、20世紀初頭に金光寺が長楽寺と合併してのちは、長楽寺の土蔵に保管されてきたものという。近年修理が行われ、銘文が見つかるなどして、像主名や作者などがわかってきた。

 

時宗(時衆)のリーダーは、遊行(ゆぎょう)上人と称される(遊行とは、本来、各地をまわって教えを広めることをいう)。開祖一遍の死後、信者をまとめて教団の形を整えたのが2代めの遊行上人である他阿真教である。以下、3代智得、4代呑海と続く。

 

金光寺は七条道場ともいい、14世紀初頭に、康弁から土地の寄進をうけた時宗2代の真教が、弟子の呑海に道場とさせたのにはじまると伝える。七条東洞院にあったというので、今の京都駅のすぐ北側であった。

しかし、康弁は運慶の子ども(三男、13世紀前半に活躍、興福寺龍灯鬼像の作者)であり、年代が半世紀合わない。

では、荒唐無稽な伝かというと、そうともいえない。運慶流はそれ以前は奈良仏師といったが、運慶以来京都七条に根拠地をもち(七条仏所)、金光寺と地理的に近いだけでなく、この長楽寺に伝わる時宗祖師像の作者は運慶流の仏師である。金光寺と七条仏所の結びつきを示す史料も伝わっており、金光寺が運慶の流れを汲む仏師の寄進によって開かれたということは、可能性としてあり得ると思われる。

 

 

拝観の環境

本堂に向って左に立派な収蔵庫が建ち、寺宝を公開している。

収蔵庫の奥の壁面に、時宗祖師像7躰がずらりと並び、壮観である。

ガラスケースごしではあるが、近くよりとてもよく拝観できる。

 

 

一遍上人像、真教上人像について

7躰の時宗祖師像のうち、立像が1躰、倚像(腰掛けた像)が1躰、残る5像が坐像である。

 

立像は時宗の開祖、一遍上人像である。一遍のお像は他寺(松山市・宝厳寺、相模原市・無量光寺)にも伝わり、また絵巻物にもその姿が描かれているものがあるが、それらと特徴が共通する。前屈みで、合掌しながら念仏をとなえている姿で、裾の短い衣を着し、足首を見せる。目の上がひさしのように高くなり、ほお骨が張る一方、目はくぼみ頬はこけている。

像高は約130センチ。ヒノキの寄木造、玉眼。

像内に銘記があり、室町時代前期の1420年に運慶流の仏師、康秀がつくったことが知られる。

 

腰掛けた姿の像は、総高で約120センチ、坐高で約80センチとほぼ等身大の像である。ヒノキの寄木造、玉眼。

この像は、像内銘が「南無阿弥陀仏」の一行のみで、作者や年代の記載がない。しかし、小さな木製の五輪塔2基と歯および髪が納入されていた。とくに五輪塔には「大上人」と刻まれた文字があり、時宗で大上人というと2代遊行上人の真教を指すことから、真教の像と考えられる(異説もあり)。また、この五輪塔から火葬骨片が見つかっていることから、真教の死後、その遺骨を籠めたのではないかと推測される。

真教が亡くなったのは鎌倉末期の1319年であり、像がつくられたのは、その以後、おそらく南北朝時代と考えられる。

 

真教の像も一遍の像と同様、ほかにも作例が知られる。たとえば、小田原市・蓮台寺の像(神奈川県立歴史博物館寄託、普段は展示していない)は晩年の寿像(存命中につくられた像)であるが、患った中風のために、顔をやや引きつったようにして表現している。一方長楽寺の像はそうした容貌でないが、その理由としては、死後理想化してつくられた像であるためということが考えられる。

 

一鎮上人像
一鎮上人像

一鎮上人像について

坐像の5躰は像高80センチ前後と、ほぼ等身大の像である。いずれもヒノキの寄木造、玉眼。

これら5像は、一遍像、真教像にくらべ、いっそう像主の特徴を生々しく写している印象で、おそらく生前、その人を知って制作した像と考えられる。

どの像も姿勢よく前方を見、口は閉じ、合掌している。頭部は小さめで、体をゆったりと大きくつくっている。

顔つきは、それぞれ特徴があり、人柄までも感じさせるようである。

 

中で最も真に迫ってその人がそこに座っているように感じるのが、一鎮(いっちん)上人のお像である。

一鎮は真教の弟子で、1327年に遊行第6代となり、1355年に亡くなった。

額がくぼんでいるという特徴があり、師の言いつけに背き、鐙(あぶみ)でたたかれたためという伝説を生んだ。このために「鐙上人」とも呼ばれたというが、肖像も若干額をくぼませてある。

頭頂の形、額の皺、二重のまぶた、目の下のたるみ、華の下の微妙な曲線、薄い唇など、ほんとうに真に迫ってくる彫刻である。

また、動きを感じさせる衣の襞(ひだ)の流れや座った姿勢の自然さ、また体の厚みもすばらしい。

 

この像は、かつては金光寺を開いた呑海上人像と伝えられていたという。調査によって像内銘が見つかり、与阿弥陀仏一鎮の像であること、1334年につくられ、57歳のときの寿像であること、作者は幸俊であることが知られた。また、与阿弥陀仏の前に「壇那」とあることから、一鎮自身が像の注文主であったと推測される。

作者の幸俊はこの時代の七条仏所を代表する仏師、康俊(東寺大仏師)のことと考えられる。彼は、兵庫県・円教寺の金剛薩埵像をはじめ、比較的多く作品を残しているが、この一鎮像はその初期の作に位置づけられる。

 

 

尊明上人像、太空上人像、尊恵上人像、暉幽上人像について

他の4像については、15世紀はじめから半ば頃、七条西仏所の康秀またはその周辺の作者による造像である。

 

尊明(そんめい)上人は、第13代の遊行上人で、1350年に生まれ、1417年に亡くなった。尊明上人像からは、1407年の作であること、58歳の像であること、作者は法印康祐とその子法橋康秀であると記された墨書が見つかっている。

落ち着いた風貌の像である。

 

太空(たいくう)上人は、1412年に尊明上人のあとを継いで14代の遊行上人となり、5年後の1427年に退いて、藤沢の清浄光寺に移り、1439年に亡くなった(前の遊行上人が亡くなると、遊行を次に譲り、藤沢に移り住むというのがならわし之ようになっていた。これを「独住」という)。

太空上人像にも銘があるが、残念ながら判読できる部分が少なく、仏師名はわからない。手の指に「十四たい上人」と文字が刻まれている。他の像と同様であれば、遊行上人であったときにつくらせた寿像で、仏師は七条仏所の中心的人物であると推定ができる。

従って、15世紀前半、康秀あるいはその周辺の仏師の作と考えられる。

眼光鋭く迫ってくるような印象がある。

 

尊恵(そんえい)上人は、1417年に第15代遊行上人となり、1429年に亡くなった。

尊恵上人像の銘文も読みにくくなっているが、遊行上人の像であること、1421年、下野法(眼)の作であることがわかる。下野法眼は康秀のことと考えられる。

目を細め、内省を進めているように感じる像である。

 

暉幽(きゆう)上人は1440年に17代の遊行上人となり、1466年に63歳で亡くなっている。

暉幽上人像の銘文は「遊行十七代、奉入、七条西仏所」とあるだけで、年や仏師名はわからない。顔には皺を刻まず、比較的若々しくつくられていることから、晩年になる前の作と推定される。1452年に亡くなった仏師康秀の最晩年の作である可能性がある。

 

 

その他1

康秀の他の作品としては、大阪・藤次寺の弘法大師像が知られる。

 

 

その他2

暉幽上人の銘文にある「七条西仏所」について。京都の代表的な仏所のひとつで、運慶の流れを汲む七条仏所は、このころ東、中、西の3つに分立していたといい、その西仏所であることを示す。

東仏所は当初からあまりふるわなかったようだ。

西仏所は「運慶五代」を称した康誉(栃木・遍照寺の大日如来像や北九州市・大興善寺の如意輪観音像などをつくる)にはじまり、15世紀前半、康祐や康秀の活躍もあって、隆盛であった。

康秀が亡くなる前後より西仏所は衰退に向い、かわって中仏所が七条仏所の「正系」となったと考えられる。15世紀後半に東寺講堂の大日如来像を再興造仏した康珍や17世紀初頭に東寺金堂の薬師三尊像を制作した康正は、この仏所の仏師である。

 

 

さらに知りたい時は…

『国宝一遍聖絵と時宗の名宝』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、2019年

『室町時代の彫刻』(『日本の美術』494)、根立研介、至文堂、2007年7月

『日本中世の仏師と社会』、根立研介、塙書房、2006年

「小田原市蓮台寺の時宗二祖他阿真教寿像について」(『仏教芸術』280)、薄井和男、2005年5月

「七条仏所による時宗祖師像製作の初期の様相について」(『学叢』23)、淺湫 毅、2001年

「時宗肖像彫刻の像主について」、薄井和男(『美術史論叢 造形と文化』、清水眞澄編、雄山閣出版、2000年)

『長楽寺の名宝』(展覧会図録)、京都国立博物館、2000年

『時衆の美術と文芸』、時衆の美術と文芸展実行委員会、東京美術、1995年

「長楽寺の時宗祖師像」(『仏教芸術』185)、松島健、1989年7月

「円山長楽寺時宗祖師像について」(『史迹と美術』595)、斉藤孝、1989年6月

『解説版 新指定重要文化財3 彫刻』、毎日新聞社、1981年

「長楽寺の時宗肖像彫刻」(『仏教芸術』96)、毛利久、1974年5月

 

 

仏像探訪記/京都市