北向不動
年1度、1月16日に開扉
住所
京都市伏見区竹田浄菩提院町61
訪問日
2010年1月16日
拝観までの道
正式には北向山(きたむきざん)不動院という。
近鉄京都線、京都市営地下鉄烏丸線の竹田駅で下車し、西南方向へ徒歩約10分。
安楽寿院の西にある比較的こじんまりとしたお寺である。
本尊は秘仏の不動明王像で、北を向いて安置されているためにその名前がある。年に1度、1月16日に開扉される。
事前に開扉の時間を聞いたところ、10時から11時半までと13時から14時までということだった。筆者は11時前に到着した。
竹田駅からお寺までの間、ご開帳を知らせる掲示や幟など特に何もない。しかしお寺に近づくにつれて、人が増えてくる。参拝を終えて戻って来たらしい方々は、皆どことなく満足そうな顔つきである。狭い境内は人で溢れんばかりで、信仰厚いお寺さであると実感する。人が多いとじっくりと拝観というのは難しいが、その一方賑わっているお寺の雰囲気はいいものである。
お堂の南側に拝観の受付があって、ここで内陣参拝券を購入し、列に並ぶ。
北向不動の名の通り本堂は北向きで、その南側に耐火式のお堂が接続してつくられており、その横手から入る。山伏姿の修行者(このお寺は天台系の単立らしい)がお堂入口でひとりひとり浄めてくださる。本尊は耐火式のお堂に移されているので、本堂内陣の厨子中には小ぶりの前立ちの不動三尊像が安置されている。
その脇で山伏姿のお坊さんが座り、参拝者ひとりひとりに咒を授けてくださっている。そのあといよいよ本尊の前へと向う。
* 北向山不動院
拝観料
内陣拝観500円
お寺や仏像のいわれ
北向不動は、院政時代にこの地にあった広大な鳥羽離宮内の不動堂の後身であるという。
12世紀の公家の日記である『兵範記(へいはんき、ひょうはんき)』の1155年の記事によれば、この不動堂は鳥羽離宮の「安鎮」のために造営されたもので、その仏像は半丈六の不動明王像のほか、2童子像、虚空蔵像など。像は北向きに安置され、仏師は康助であったと書かれている。
これらの仏像の中で、不動明王像だけが北向山不動院の本尊として今に伝わっている。
拝観の環境
厨子中にあって正面からのみの拝観。ライトがあたって、よく拝観できる。
仏像の印象
すごい仏像である。
写真と実物の印象が大きく異なる仏像は多い。しかしこの仏像くらい写真と実物とが違う像もあまりないのではないか。生き生きとして、驚くべき力強さで迫ってくる像である。
像高は約140センチ。『兵範記』にあるように、半丈六像である。
右足を踏み下げるが、仏画では例があるが、不動像の彫刻としては珍しい。樹種はヒノキと思われる針葉樹。寄木造。
玉眼を使用した仏像として、長岳寺(奈良県)の阿弥陀三尊像(1151年)などとともに古例である。
頭部はやや大きめで、髪はうねうねと生きているが如き巻き髪。弁髪は短い。眉を厳しくひそめ、目は左目をやや細める。玉眼によって眼光の鋭くさがあらわされ、像に強い生命力を与えているようである。
口は牙を見せつつ、強くへの字につくる。そのゆがめた顔つきは迫力があるが、一方で平安後期時代の仏像らしい気品もまた残している。
脇侍の2童子は近世の補作。
仏師康助について
定朝のあとを継ぐ仏師は、院派、円派、奈良仏師の3派に分立する。
12世紀後半に康慶(運慶の父)が出て以後慶派と呼称される一派は、康慶以前は奈良仏師と呼ぶのが一般的である。
定朝のあと5代めになるのが康慶だが、その中間、3代めの仏師が康助である(定朝ー覚助ー頼助ー康助ー康朝と続き、康朝の弟子が康慶と考えられている)。
奈良を本拠地としたことから、京における活動では印派、円派の後塵を拝することが多かった奈良仏師の中で、康助は院や摂関家とのつながりを深め、その造仏を多く担当した。
確実な現存作品が他にない(金剛峰寺の谷上大日堂旧本尊大日如来像も彼の作である可能性がある。この像は高野山霊宝館で展示される場合がある)ので確かなことはいえないが、この不動像のもつ強烈な生命力は、優美な仏像を得意とした院派、円派と違った独自性をもつ奈良仏師ならではのものであり、鳥羽離宮の「安鎮」にふさわしいとされたのではないか。
ところで、この像の造立のことが記されている『兵範記』だが、さまざまな反故紙の裏紙を用いて書かれている。その裏紙の文書(紙背文書)の中に、なんと康助のものがある。
それは康助からの御衣木(みそぎ、仏像の用材のこと)の注文に関しての文書で、『兵範記』の筆者平信範(のぶのり)は摂関家の家司でもあり、宮廷におけるさまざまな実務を行っていた人物であったために、こうした文書が手元に残って、のちに日記の用紙として再利用されることで偶然今日に残ったものである。
この康助の依頼文はたいへん変わった内容である。康助は平信範に対して、「普通とは違った細々とした材をお願いします」、「他の仏師にはくれぐれも見せないでください」と書き送っている。院政期に活躍した仏師の中で、康助は非常に個性的な人であったことは確かなようである。
さらに知りたい時は…
『日本美術全集』4、小学館、2014年
「北向山不動院不動明王坐像の修理について」(『仏教芸術』280)、奥健夫・飯田雅彦、2005年5月
「安楽寿院不動堂本尊(北向不動)と仏師康助」上・下(『仏教芸術』264・266)、伊東史朗、2002年9月・2003年1月
『月刊 文化財』464、2002年5月
「院政期の「興福寺」仏師」(『仏教芸術』253)、根立研介、2000年11月
『日本彫刻史研究』、水野敬三郎、中央公論美術出版、1996年
「奈良仏師康助と高野山谷上大日堂旧在大日如来像」(『仏教芸術』189)、武笠朗、1990年3月