三千院の阿弥陀三尊像
往生極楽院本尊
住所
京都市左京区大原来迎院町540
訪問日
2015年3月29日、 2018年8月13日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
京都、出町柳、四条河原町、国際会館の各駅からの京都バスに乗車し、「大原」で下車。
筆者は国際会館駅前の3番乗り場から京都バス(19系統)に乗車した。便数は1時間に1~2本で、乗車時間は20分あまりだった。
バス停より東へ、少し上り坂となっている細い道をゆっくり歩いても10分くらいで着く。
拝観料
700円
お寺のいわれなど
天台宗寺院の中でも格式高い門跡寺院(皇族、貴族が住職をつとめる高い寺格の寺院)である。
そのはじまりは、最澄が比叡山内に設けた一堂である円融房であるといい、のちに山麓の坂本に移転。院政時代に堀河天皇の皇子が入寺することで門跡寺院となり、梶井門跡または梶井宮門跡などと呼ばれた(その後に成立した青蓮院門跡、妙法院門跡とあわせて天台三門跡という)。
鎌倉時代の火災を機に京都市中に移転、さらにそののち大原へと移ってきたものが現在の三千院である(三千院の名前は、梶井宮の中にあった持仏堂の名称からきているという)。
大原の地は、平安京の北東、高野川(大原川)沿いの山間にあり、平安時代中期以後、比叡山の俗化を嫌った僧が庵を次々と結ぶなどして、念仏聖が多く来住するところとなった。有名なところでは、11世紀前半、寂源は延暦寺と園城寺の争いを避けて大原の勝林院に入り、11世紀の末に良源は大原に隠棲して来迎院を創建した。
延暦寺は大原の寺々を別所とし、その監督のための政所を置いたが、それが今の三千院のある場所であったらしい。三千院はいかめしい石垣に囲まれているが、それはここがかつて大原の寺院を監督する場所であったことの名残りという。
拝観の環境
三千院の境内は広い。まず客殿と宸殿を拝観。一度靴を履いて、往生極楽院へ、そのあと境内の東側に点在する金色不動堂や観音堂、庭園、石仏をめぐって、最後に円融蔵(宝物館)へという拝観のルートでまわる。
宸殿の縁(北側)まで来ると往生極楽院本堂がながめられる。
境内の中央、木立の中に建つどちらかといえばこじんまりした建物である。住宅建築に近いたたずまいと言えようか。
靴を履いて庭に下り、ぐるっと回り込むようにして、入堂する(お堂は南向き)。
堂内には、三千院の仏像中白眉ともいうべき阿弥陀三尊像が安置され、近くよりよく拝観できる。
仏像の印象
往生極楽院は、三千院がこの地に移転してくるにあたって境内に取り込まれ、現在ではその中の一堂のような形となっているが、本来は別の寺院であった。近代以前は極楽院といい、12世紀に真如房上人によって創建されたものである(真如房は高松中納言藤原実衡の後室の女性との推定があるが、疑わしい)。
本尊・阿弥陀三尊像は寄木造、中尊の阿弥陀如来坐像は像高230センチ、脇侍の2菩薩は約130センチ(中尊は周丈六、脇侍は半丈六の大きさ)。
向かって左側の勢至菩薩像の像内墨書銘により、1148年の作と知られる。
銘文はあくまで勢至菩薩像の造立を述べたものであるが、中尊と脇侍像はほぼ同様の構造で、三尊はもともと一具と思われる(異説もある)。
中尊は八角形の台座に裳を懸かけた上に座す。脇侍像は蓮華座。中尊の左右でなく、斜め前に出ているのが特徴で、来迎の様子を臨場感あふれるさまであらわすための工夫と考えられる。
阿弥陀三尊がこのお堂の本来の本尊としてつくられたものかということについては、若干の疑問が残る。
お堂は、これだけの大きな像をおさめるものとしてはいかにも小規模で、実際に光背がつかえ、そのために天井が舟底をひっくり返したように高くする工夫がしてあり(もともとはここに極彩色で浄土のありさまが描かれていた)、これはこれでとても優美ではあるものの、三尊とお堂は本来はセットでなかったのではないかと考えられないこともない。
それはともかくとして、三尊の存在感はすごい。中尊は威厳のある顔つきである。頬の張りをややおさえ、面長とまではいかないが若干引き締まった感じである。
やわらかで薄手の衣をまとっている様子が実に巧みにつくられている。
来迎印を結んでいる。
脇侍は大和座りをして、体を前に傾ける。観音像は蓮台をささげ、勢至菩薩は合掌して浄土への導きを果たそうとしている。あごを引き、両膝はほどよく開いて、体を前に倒して、来迎のありさまを表現する。
すばらしい造形の妙である。
堂内につめているお坊さんに、ここを訪れるのにおすすめの頃はありますかと聞いたところ、冬の拝観時間が終わる直前、人が少なくなり、空気がピンと張りつめたようになった時がことにすばらしいと思うとおっしゃっていた。
ぜひ今度はその時期、その時間帯に訪れたいと思う。
円融蔵安置の仏像
円融蔵は2006年に開館した三千院の宝物館である。
三千院に伝来する絵画や往生極楽院の壁画の復元が展示されている中に、仏像は2躰、中世の救世観音像と不動明王像が置かれている。いずれもガラスケース内で、照明は暗め。
救世観音像は像高30センチあまり、首を少しだけ傾け、右手を頬の近くにもってきて、左足を踏み下げる。眉から鼻のラインが強く彫り出されて印象的なのと、不思議な微笑みを浮かべる顔つきが魅力的である。玉眼。上半身は袖のある衣をつけ、下半身の衣は繰り返し折り畳まれてリズムを出す。
像内に納められた願文から鎌倉時代中期の1246年の作とわかる。
もとは宸殿西の間に安置され、厳重な秘仏であったが、1950年代より多くの人が直接拝めるようにしたそうだ。
不動明王像ももと宸殿西の間安置。像高1メートルの立像で、大きな巻き毛、強くゆがめた目や口、また下半身の衣の襞は大変すぐれた彫り技である。顔は小さめで動きは少なく、わずかに左足を出す。
その他の仏像
金色不動堂の本尊、不動明王像(「出世金色不動明王」)は秘仏で、毎年4月半ばの日曜日から5月半ばの日曜日までの約1ヶ月間開扉されているらしい(2015年は4月19日~5月17日の間だった)。円珍感得の園城寺黄不動像を彫刻にした古例で、鎌倉時代前期の作。
境内北東、律川(天台声明の里らしく、音楽にちなんだ名前がつけられている)をわたったところに石仏がある。「売炭翁石仏」と称されているのは、これも大原らしく薪や炭の産地であったことからきているのだろう。定印の阿弥陀如来像で、鎌倉時代の作であり、京都でも古い石仏のひとつである。
さらに知りたい時は…
『日本美術全集』4、小学館、2014年
「阿弥陀堂と九品曼荼羅」(『仏教芸術』303)、冨島義幸、2009年3月
『三千院』(『週刊 古寺を巡る』37)、小学館、2007年10月
『三千院』(『週刊 原寸大日本の仏像』14)、講談社、2007年9月
『三千院』(『新版 古寺巡礼 京都』4)、淡交社、2006年
『月刊 文化財』464号、2002年5月
「三千院往生極楽院阿弥陀三尊像--来迎像を丈六とする一古例 」(『仏教芸術』256)、伊東史朗、2001年5月
『社寺調査報告』22(三千院・鉄舟寺)、京都国立博物館、2001年
『京都大原三千院の名宝展』(展覧会図録)、朝日新聞社、2000年
『三千院』(『古寺巡礼 京都』17)、淡交社、1977年
『三千院』、三山進、中央公論美術出版、1970年
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』3、中央公論美術出版 、1967年