建穂寺の諸像

  「幻の寺」の仏像群

住所

静岡市葵区建穂2−12−6

 

 

訪問日 

2010年8月8日、 2014年4月6日

 

 

 

拝観までの道

建穂寺(たきょうじ)は、静岡駅の西方、藁科(わらしな)川の北側の丘陵地帯の裾にある。

静岡駅北口のバスターミナル(2番乗り場)より静鉄のバス藁科線に乗車し約20分、「服織(はとり)小学校入口」下車、北へ徒歩10分弱。

 

しずてつジャストライン

 

拝観は、「建穂寺の歴史と文化を知る会」に連絡をとると対応してくださる。

本尊は年1度、8月上旬の日曜日の午前中に開扉される(かつては8月9日の開帳だったが、現在はその日に近い日曜日となっている)。「建穂寺の歴史と文化を知る会」に連絡して、日にちを確認のこと。

 

* 建穂寺および「建穂寺の歴史と文化を知る会」について、「大御所四百年祭記念・家康公を学ぶ」ホームページ内(史跡巡り>建穂寺)に紹介があります。

 

 

拝観料

志納

 

 

お寺のいわれ

真言宗寺院で、かつては「駿河の高野山」と呼ばれるほど栄えていたと伝える。天台宗の久能寺(現鉄舟寺)とともに駿河の二大寺院であったという。

奈良時代よりさらに前、道昭によって創建され、奈良時代に行基によって中興されたと伝えるが、実際に古代の文献に名前が見える古刹である。

家康によって寺領480石を認められ、江戸時代を通じて栄えた。その東側にある建穂神社とは一体であったようである(山上に観音堂、山下に神社、その脇に子院群という配置だったらしい)。

それほどの大寺院が、近代初期、廃仏と火災というダブルパンチによって廃寺に追い込まれた。救い出された仏像は村人によって保護されたが、その後盗難にあった仏像もあるとのこと。

1975年に地域の方々によって現在の観音堂がつくられて、現在に至っている。

 

 

拝観の環境

お堂の入口には仁王像が置かれ、その奥、正面に本尊・千手観音像の厨子、徳川家の位牌、弘法大師像の厨子が安置されている。そのまわりには本尊の前立ち仏と伝わる千手観音像、二十八部衆像、阿弥陀像、観音像、地蔵像、不動像、閻魔王像、高僧の肖像など、あわせて50体以上の仏像が安置されている。小さな像が多く、また破損が進んでいるものが大半でやや痛々しい。

二十八部衆像はすべては揃わず、阿修羅像などは残っていない。風神・雷神像がユニークな顔つきで目を引く。これらは中世後半から近世の像である。

 

ガラス越しではあるが、近くから拝観できる。ただし、開帳の日は法要もあり、堂内は狭く、なかなかじっくり拝観というのは難しい。本尊拝観にこだわらなければ、開帳日を避け、お願いしてお堂を開けていただくのがよいかもしれない。

 

千手観音像
千手観音像

 

千手観音像の印象

本像は1576年に焼失した建穂寺の観音堂の再興本尊としてつくられ、近代に建穂寺が廃寺となると別寺院に移されたが、そのお寺もまた廃絶したために、ここにもどってきた像である。

秘仏として厨子で守られてきたためか、また近世作なので比較的新しいということもあって、傷みが少ない。

像高は約130センチの立像で、クスノキの寄木造、玉眼。

ほぼ素地で、落ち着いた作風の像である。顔、体はやや四角ばり、彫りはいかにも手慣れた仏師の作という感じがする。

像内に銘があり、この像が建穂寺の本尊として造立されたこと、1577年の年や仏師長勤(ちょうごん)の名前がある。長勤は16世紀前半から後半にかけて息長く活躍したいわゆる鎌倉仏師で、神奈川県箱根町の興福院の千手観音像をはじめ、東京、埼玉、神奈川に作品を残している。本像は、今分かっているかぎり、長勤の最後のそして一番西の地方に残した仏像彫刻である。

 

 

そのほかの仏像

そのほかの仏像からいくつか紹介したい。

本尊の厨子前に安置された2躰の不動明王像のうちの1躰はヒノキと思われる材を用いた一木造で、平安時代までさかのぼるのではないかとされる像。像高約60センチの立像で、太い手足が印象的。

 

もう1躰の不動明王像は玉眼で、鎌倉時代の作と推定される。像高約80センチの立像で、材はヒノキと思われる。しかめた顔、ひねった腰の動きが可愛らしい感じである。

像高約60センチの如来形坐像は、寺伝では阿弥陀如来とされる。胸前で説法印を結ぶが、左右の手の高さが異なる。肉髻は低く、髪際はかなり強くカーブする。顔は卵形できれいに整い、若々しい表情で、玉眼が生気を与えている。左足を上にして足を組み、足の裏を衣でくるむ。やはり鎌倉時代の作と考えられている。

さて、これらの仏像に対して向かって右側のケース中に毘沙門天像が安置されている。像高は80センチ強。顔つきは生硬でいかにも後補だが、体部は鎌倉期の像であると思われる。上述の不動明王像と一具であったかもしれない。

さらに、説法印の如来像がもとから阿弥陀如来像だとして、これら不動、毘沙門天像とセットであったと仮定すると、これは運慶作の願成就院の仏像と同じ組み合わせということになる。もしそうだとすれば、大変重要な作例ということになるが、現在のところ材料不足で何とも言えない。

 

さらに、本尊厨子に向かって左前の伝大日如来像と説法印の如来坐像の向かって左側に安置されている宝冠阿弥陀像もセットであった可能性がある。宝冠阿弥陀像もまた頭部が後補になっているのが残念だが、体部は平安時代から鎌倉時代にかけての作で、衣を通肩に着て、手は阿弥陀の定印を結ぶ。像高は約70センチの坐像。一方、伝大日如来像も同じ時代の像と思われ、像高は40センチ弱の坐像。残念ながら脚部等は後補。この像は宝冠阿弥陀如来像に付き従う4菩薩のうちの1躰と考えられている。

脇侍とともに残る宝冠阿弥陀像は珍しく、貴重である。

 

 

さらに知りたい時は…

『建穂寺記 地元から読み解く実像』、早川和男、静岡新聞社、2019年

『建穂寺の仏像』(展覧会図録)、財団法人清水港湾博物館、2010年

「静岡・建穂寺の千手観音立像 仏師長勤作」(『学叢』32)、淺湫毅、2010年3月

「静岡・建穂寺の彫刻」(『学叢』31)、淺湫毅、2009年5月

「遺された彫刻より観た建穂寺」一・二(『地方史静岡』28・29)、大宮康男、2000年・2001年

「建穂寺宝冠阿弥陀如来像に就いて」(『地方史静岡』26)、大宮康男、1998年

 

 

→ 仏像探訪記/静岡県