安楽寺の2躰の肖像彫刻

  緑の中のお堂で師と弟子の像が並ぶ

住所

上田市別所温泉2361

 

 

訪問日 

2008年9月14日 

 

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

 安楽寺・境内・文化財にご案内

 

 

 

拝観までの道

上田駅から上田電鉄別所線で約30分、終点の別所温泉駅から西へ15分くらい歩くと安楽寺に着く。

 

 

拝観料

300円

 

 

お寺や像のいわれ

別所温泉は、『枕草子』に「七久里の温泉」として登場する長野県内最古の温泉という。また、この上田市西南部は塩田平ともよばれ、安楽寺をはじめ、鎌倉時代の建築や彫刻がいくつも現存し、「信州の鎌倉」と呼ばれることもある。

特に鎌倉時代後期には、塩田北条氏(その祖は極楽寺重時の子義政で、連署として8代執権北条時宗を補佐したのち、この信州塩田平に隠棲した)が3代にわたりこの地を領有し、鎌倉の仏教文化が直輸入された。

 

安楽寺の草創は奈良時代というが不詳。鎌倉時代に宋から帰朝した樵谷惟仙(しょうこくいせん)が再興したとされるが、実質的にはこの惟仙が開いた寺と考えてよい。なお、現在は安楽寺は曹洞宗だが、当初は臨済宗寺院であった。

惟仙と同じ船で日本に渡ってきた僧に、建長寺開山となった蘭渓道隆がいる。蘭渓から惟仙に宛てた手紙も残っていて、また蘭渓の語録の中にも鎌倉の建長寺と塩田の安楽寺が仏教の中心となっていると述べられている。安楽寺は鎌倉の寺院とのつながりをもち、塩田北条氏の外護を受けながら、たいそう栄えた寺院であった。

その安楽寺開山の樵谷惟仙と、2代めの幼牛恵仁(ようぎゅうえにん)の肖像彫刻が安楽寺に残っている。本堂脇から三重塔のある裏山への道の途中、右に折れると、伝芳堂という収蔵庫を兼ねたお堂がたち、その中に並んで安置されている。

 

 

拝観の環境

拝観は堂の前からでやや距離があり、ガラスごしではあるが、堂内は明るく、よく拝観できる。

 

 

像の印象

向って右側の惟仙像は丸顔で大きな体、一方の2世恵仁はやせて眼はくぼみ、小さな体つきである。どちらも玉眼を入れ、やや素朴な印象の中にも生き生きとした存在感がある。衣文は省略的に表されている。ともに像高は75センチほどの等身大で椅子に腰掛ける。ヒノキの寄木造。

 

それぞれ像内に銘文がある。ほぼ同じ内容だが、惟仙の銘の方が若干長く、首楞厳(しゅりょうごん)経というお経の一部の八句陀羅尼と1329年の年記、大工(だいこう)兵部がつくったこと、そして遥か未来の弥勒仏下生へと連なる造像であることが書かれている。惟仙の生没年は明らかではないが、銘文の内容から、またこうした禅宗高僧の肖像彫刻は死後○回忌といった節目に造られることが多いことも考え合わせると、惟仙の死後の造立である可能性が高い。

一方、恵仁の銘文は、八句陀羅尼と1329年の年記のみが書かれる。恵仁は惟仙が中国から帰朝する際に一緒にやってきた中国僧だが、それ以外はほとんど知られるところがない。彫刻の雰囲気、銘文の内容、年まで両像は一致しているので、同時の制作であり、あるいは恵仁が師・惟仙の像をつくるにあたり、自分の像も共につくらせたのかもしれない。

 

 

その他

安楽寺は国宝・八角三重塔で有名な寺である。現存する八角の塔としては唯一のもので、鎌倉末から室町期のものと漠然といわれていたが、近年初層の建築材を年代年輪法で測定したところ、1289年伐採と判明した。これによって塔の建設時期は鎌倉時代後・末期、塩田北条氏の外護のもとにあった時代のものとわかった。

 

 

さらに知りたい時は…

『定本 信州の仏像』、しなのき書房、2008年

『上田市の文化財』(『上田市誌』27)、上田市誌編さん委員会、1999年

『長野県史 美術建築資料編 美術工芸』、長野県、1994年

『仏像めぐりの旅6 信越・北陸』、毎日新聞社、1993年

 

 

仏像探訪記/長野県