飯盛神社文殊堂の文殊菩薩像

西大寺流律宗による造像

住所

福岡市西区飯盛609

 

 

訪問日 

2016年3月5日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

飯盛神社(文殊堂)

 

 

 

拝観までの道

福岡市営地下鉄七隈線の終点、橋本駅で下車。南南西に徒歩約35分。

駅前にはタクシーが常駐。

また西鉄バスの「飯盛保育園前」バス停が近いが、バスの本数は多くない。

 

文殊菩薩像の拝観は事前連絡必要。飯盛神社のホームページから連絡させていただいた。

 

 

拝観料

志納

 

 

神社や像のいわれなど

橋本駅から南へと歩き始めると、まもなく前方に小高い山が見えてくる。標高300メートル余りの飯盛山で、飯盛神社はそのふもとにある。飯盛山をご神体として成立した神社で、山頂にあった上宮のあとからは平安時代後期の1114年の年が書かれた瓦経も発見されているそうだ。

飯盛山中腹の中宮、麓の下宮とあった社の下宮が、現在の飯盛神社である。古文書も多く所蔵し、民俗文化財として指定されている神事も伝えられている。本殿は江戸時代の建築。

今も広く信仰を集め、私が行った時も参拝客や祈願の信者が絶えず訪れていた。

 

かつてこの神社には神宮寺が併設されており、真教院といったらしい。

西大寺流律宗の寺院としてこの地域の真言律の中心地でもあったようだ。

今は文殊堂だけが遺されている。場所は南面する飯盛神社の鳥居の前より南側にはいったところ。南北朝時代の文殊菩薩像が伝来する。

 

 

拝観の環境

像は堂内奥のスペースに安置され、すぐ前から拝観させていただけた。ただし、照明はない。

 

 

仏像の印象

力強く立つ獅子の背に乗った文殊菩薩像である。

像高は70センチ余り。獅子座からの総高は2メートル以上となる。堂々たる像である。昔は獅子の下をくぐって息災を祈るといった行事があったとか。

 

ぽっちゃりとした丸顔。しかし表情は引き締まって上品さがあるが、目が吊り上がり気味で、きびしい表情とも見える。髪は五髻に結う。

足は片足を下げるといったポーズでなく、結跏趺坐する。衣の下の組んだ足の存在感が自然にあらわされている。

衣の表現はひだに煩雑さはないが、重ね着したさまがどことなく重たげにも感じられる。

 

 

作者について

本像には2種類の銘文があり(一方は現存せず、古記録に残されている)、本像がこの飯盛神社神宮寺の本尊として制作されたものであること、作者は堪幸で、1298年よりつくりはじめ、1340年に漆塗りを行い、1342年に彩色をほどこしたということがわかる。40年以上もかけてつくられた計算になるが、この1342年という年は神宮寺開山十三回忌であるとのことだ。

 

堪幸(堪康)は運慶流の康円の次の世代を代表する仏師と考えられる。康円の子ともいう。また名前から運慶の長子である湛慶の流れを引くとも推測されるが、確かなことはわからない。13世紀後半に大和・長谷寺の十一面観音像が焼失すると同じ慶派の慶秀などとともにその再興に加わり、その慶秀とのコンビで京都の勝持寺の仁王像を造立している。

また、佐賀・円通寺の二天像をつくるなど、九州方面での活躍も見られる。

息の長い活動を行い、現存作品も比較的多く、鎌倉時代後期から南北朝時代を代表する仏師といえる。

 

 

さらに知りたい時は…

「仏師と仏像を訪ねて15 湛康」(『本郷』148)、山本勉、2020年7月

『九州仏』(展覧会図録)、福岡市博物館、2014年

『南北朝時代の彫刻』(『日本の美術』No.493)、山本勉、至文堂、2007年6月

「九州西大寺末寺とその遺産」(『仏教芸術』199)、八尋和泉、1991年11月

 

 

仏像探訪記/福岡県