観世音寺の馬頭観音像

12世紀前半、仏師真快らの作

住所
太宰府市観世音寺5-6-1


訪問日 
2016年3月16日



拝観までの道
西鉄太宰府線の西鉄五条駅下車、北西に約700メートル。または、西鉄の都府楼、五条、太宰府の各駅よりバス(太宰府市コミュニティバスまほろば号北谷回りか内山線)で「観世音寺前」下車。
すぐ西側は戒壇院である。


拝観料
500円


お寺や仏像のいわれなど
7世紀、天智天皇の発願によりはじまった寺と伝えるが、実際に寺観が整えられたのは奈良時代半ばのことらしい。
真西に800メートルほどのところに大宰府政庁跡がある。古代において日本の外交を担い、九州地方の政治を統括した大宰府を守護し荘厳するためのお寺、それがこの観世音寺であった。
さらに、鑑真によってわが国に授戒の仕組みが整えられると、中央の東大寺、東国の下野薬師寺とともに観世音寺に戒壇が設置され、西国の授戒の道場としての地位も確立された。
しかしこうした観世音寺草創期にさかのぼる遺品としては、梵鐘と塑像の観音像の断片および心木が伝えられるばかりである。

平安時代後期には東大寺の末寺となった。

平安時代を通じて複数回の火災にあうが、観世音寺はこの地方における仏教文化の中心であり続けた。平安中期・後期から鎌倉時代の前半にかけての大きな仏像が多く伝来していることも、観世音寺がこの地域においていかに大きな位置を占めていたかを物語っている。
しかし、その後衰退。往年の隆盛は見る影もないほどになった時期もあった。
江戸時代中期の元禄のころに大名黒田家によって復興がなされ、金堂(阿弥陀堂)と講堂(本堂)が再建されたが、その一方で戒壇院が分離独立していった。
近代以後は天台宗寺院となっている。


拝観の環境
南大門、中門ともに今はなく、その先正面に講堂が建つ。
講堂の手前西側に金堂、東に塔跡と鐘楼があり、鐘楼の奥に収蔵庫(宝蔵)が建てられている。かつて金堂・講堂に安置されていた古仏の多くはここに集められている。
収蔵庫は1959年に建てられたもので、十数躰の仏像のほか一対の宋風の石造狛犬や舞楽面も展示され、近くで拝観できる。


仏像の印象
収蔵庫の正面(東側の壁面)にはそびえ立つように5メートル前後の巨大な立像が安置されている。中央が馬頭観音像、向かって右に不空羂索観音、左が十一面観音像である。どの像もバランスがよく、安定感があり、すぐれた作行きである。

馬頭観音は、経典に一面二臂から四面八臂までさまざまな姿が説かれる。観世音寺の馬頭観音像は四面八臂で、この姿の像は他には作例が見当たらず、珍しい。
正面の顔の横にそれぞれ面がつき、さらに後頭部(見えないが)にも顔があるので4面。それぞれの額には第三の目をあらわす。
手は左右に3本ずつがそれぞれ異なった持物をとり、正面で組んだ手は馬口印(根本馬口印)という独特の印相を表す。
一見すさまじい怒りの表情に思うが、実際には誇張を避け、落ち着きのある穏やかな像である。
長い下半身の衣の折り返される布の様子やひだのつくり方は、ていねいで手慣れた感じがある。
ヒノキの寄木造。平安時代の後・末期の作。

本像は崇徳天皇の治世、大治年中の造像と伝えられる。大治は1126年から1131年の期間に用いられた年号である。
20世紀前半に解体修理された際に像内銘が発見され、年記こそないが、多数の人物の名前が見えて、その分析から大治年中の作という伝が正しいとわかった(大治の後半、すなわち1128年~1131年の間の造像)。
銘記には10名ほどの仏師名も書かれる。その中で大仏師とある真快は、これ以前の1098年に大宰府で要職にあった大江匡房の依頼により十二神将像をつくっていることが知られる。この像は畿内に運ばれて石清水八幡宮の護国寺に安置されていたが、今は兵庫県の淡路島の東山寺にある。


十一面観音像と聖観音坐像について
観世音寺に伝来する仏像の特色は一様ではないが、像高3メートル、5メートルといった大きな像が多く伝えられ、銘文などから造像年や仏師名が知られる像も多い。クスノキを用いた像が目立つ。破綻なくまとめられたバランスよい像が多いということも特徴としてあげられよう。
大きい像が多いということについては、古代から中世の前半にかけて観世音寺がこの地域の中心であり続けたことの反映であろう。すぐれた仏像が多いのは、中央との関係、すなわち観世音寺が国によってつくられ、東大寺との関係によって長く維持されてきたことがその背景にあるのだろう(もっとも東大寺から重い年貢が負わされるといったことがあったので、観世音寺にとって東大寺は単純に頼れる中央寺院ということではなかったのだが)。
その一方で、ヒノキの仏像の割合が高くなる平安、鎌倉時代にあって、クスノキを用いた像が多くつくられているのは、中央とは別の価値観があったことを示すものと思われる。

馬頭観音像に向かって左に立つ十一面観音像とそのさらに左側の坐像の聖観音像も大きな仏像である。これらの像も造像年が知られているという点で貴重である。
聖観音像は像高3メートルを越す坐像で、クスノキの寄木造。像内に銘文があり、多くの僧俗の名前が書かれるが、造像年は記されない。しかし、1064年の火災後の復興事業として、1066年につくられたものと考えられている。
顔はややうつむき加減であり、目鼻口がていねいなつくりで、額と顎は狭い。胴をしっかりと絞り、脚部の衣は等間隔にひだをつくって流麗に流れる。

十一面観音像はヒノキの寄木造。像高約5メートルの立像。
この像でまず目立つのは、目と眉が大きくくっきりと刻まれていることである。参拝者に慈愛に満ちたまなざしを降り注いでいるように感じる。その上部には華やかな天冠台、そして花が開いているように置かれた頭上面が印象的である。
体はほぼ直立し、安定感ある立ち姿である。下半身の衣は美しく波打ち、すっと細くなっていく下肢も上品な感じを像に与えている。
像内に銘文があり、たくさんの結縁者の墨書のほか、仏師名、造像年がわかるのが貴重である。それによると、つくられたのは藤原氏の全盛時代が過ぎ、院政期がはじまる直前の1069年である。


兜跋毘沙門天像・大黒天像・地蔵菩薩立像について
観世音寺宝蔵には上記のほかにも多くの平安時代の木彫像が安置されているが、ことに兜跋毘沙門天像、大黒天像、地蔵菩薩立像の3躰はクスノキ材を用いた一木造で、内ぐりのない古様な像である点が共通している。

兜跋毘沙門天像は、像高約160センチ。邪鬼まで共木で彫り出されている。観世音寺宝蔵安置仏で最古の像であると思われる。プロポーションがよく、怒りの表情が魅力的で、前後左右の絶妙なバランス、細く絞った胴は印象深い。
大黒天像は像高約170センチ。頭巾を着け、袋を担う。眉は釣り上がって、福徳の神というよりも怒りをあらわしている。大黒天像の遺例の中で、最古でまたもっとも大きな像といえるだろう。
地蔵菩薩立像は像高約140センチ。ほぼ直立し若干窮屈そうに立つ姿で、顔などは後世の修理のためか、ややすっきりとしすぎているようでもある。


さらに知りたい時は…
「観世音寺における講師と造像」(『仏教芸術』348)、宮田太樹、2016年9月
『観世音寺の歴史と文化財』、観世音寺、2015年
『観世音寺馬頭観音と九州の古仏』(『週刊 原寸大日本の仏像』36)、講談社、2008年2月

『観世音寺 考察編』、九州歴史資料館、2007年
『観世音寺』、九州歴史資料館、2006年
『太宰府市史 建築美術工芸資料編』、太宰府市史編集委員会、1998年
『太宰府文化財名選 観世音寺のほとけたち』、太宰府市教育委員会文化課、1996年

『大宰府と観世音寺』、高倉洋彰、海鳥社、1996年
『如意輪観音像 馬頭観音像』(『日本の美術』312) 、井上一稔、至文堂、1992年5月

「太宰府観世音寺と対馬・壱岐の美術」(『近畿文化』452)、紺野敏文、1987年7月
『観世音寺』(『古寺巡礼西国』6)、淡交社, 1981年


仏像探訪記/福岡県