神武寺の薬師三尊像

  毎年12月13日午前中に開扉

住所

逗子市沼間2丁目1402



訪問日 

2014年12月13日



この仏像の姿は(外部リンク)

逗子市内の重要文化財




拝観までの道

神武寺(じんむじ)は、横須賀線東逗子駅と京急逗子線の神武寺駅との間、標高数十メートルの山の上にある。低い山、短い徒歩時間ではあるが、意外に険しいので、歩くのにふさわしい靴で行くことが必要。

筆者は行きは東逗子駅から、帰りは北側に下って神武寺駅に出た。

東逗子駅の西側で線路を渡り、北へ数分行くと、右手に神武寺への案内板が出ている。そこから山道となり、神武寺の門まで10分くらいだった。

一方、お寺から神武寺駅までだが、北西方向に向かう急坂を10分くらい下ると老人ホームの脇に出るので、そこからは平坦な道を京急線につきあたるまで進んで県道を左折。駅まで20分くらいだった。


薬師堂の本尊・薬師三尊像は、本来33年に一度の開帳仏(次回は2017年とのこと)だが、毎年1回12月13日の午前中(9時から12時)、すす払い行事として開帳されている。

筆者は9時半ごろ到着した。ちょうどご開帳の法要が終わるところで、堂内で拝観させていただくことができた。



拝観料

特に拝観料等の設定はなかった。



お寺や仏像のいわれなど

奈良時代に法相宗寺院としてはじまり、平安時代より天台宗寺院となったと伝える。しかし古代におけるこの寺院の様相については残念ながらよくわからない。


鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』には、源頼朝が安産の祈願(実朝誕生の際の)を行った寺のひとつにこの寺が登場し、また実朝も本寺に参詣したとみえる(字は異なるのだが、いずれも神武寺をさすと考えられている)。

鎌倉幕府滅亡後も鶴岡八幡宮寺とは結びつきが続いていたようだが、室町時代から江戸初期にかけてたびたび火災となり、衰退を余儀なくされた。

江戸時代には徳川将軍家からの寄進もあり、次第に寺運を回復し、19世紀前半の火災と近代の大きな社会変動をのりこえて今に至っている。


薬師堂は江戸前期の再建。正面奥に薬師三尊の厨子が置かれ、左右に十二神将像(江戸時代)が安置されている。



拝観の環境

すぐ前から拝観させていただけるが、厨子の上部からの装飾品が垂れていて、やや見づらくなっている。



仏像の印象

室町時代の作(15世紀ごろ)。像高は70センチくらいの坐像。彫眼。

特徴的なのは髪で、螺髪でなく縄のような文様が刻まれている。この縄のような髪は清涼寺式釈迦像を思わせるが、霊験像であることを示しているのだろう。肉髻は低い。

顔つきはやや独特で、目鼻が接近する一方で頬が縦に長い感じがする。あごはしっかりつくって、口もとも引き締まるが、それ以外はやや平面的な顔つき。ほのぼのとした暖かさが感じられる表情で、親しみを感じる。

胸も抑揚があまりない。左肩の衣の襞の線は折れ曲がってアクセントになっている。

脚部の衣も線を細かくは刻まない。やや素朴な風がある。衣の端は波打っているようだが、散漫な印象がある。


脇侍像は像高約60センチ。細長い体つきの瀟洒な像である。

同じく室町期の作と思われる。こちらは中尊と異なり、玉眼が入っている。



その他

薬師堂の下には本堂があり、普段は非公開だがこの日には入堂できる。



さらに知りたい時は…

『湘南の古刹 神武寺の遺宝』(展覧会図録)、神奈川県立歴史博物館、2004年

『逗子市文化財調査報告書』第1集 、逗子市教育委員会、1970年



仏像探訪記/神奈川県