正眼寺と岡田美術館の仏像

  正眼寺の地蔵菩薩像は春秋の彼岸に開扉

正眼寺曽我堂
正眼寺曽我堂

住所

箱根町湯本562(正眼寺)

箱根町小涌谷493-1(岡田美術館)

 

 

訪問日 

2014年9月21日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

岡田美術館・コレクション

 

 

正眼寺曽我堂について

正眼寺(しょうげんじ)は臨済宗の寺院。

箱根湯本駅から徒歩10~15分。駅の南西側、旧東海道沿いにある。

本堂の裏手の曽我堂は、春と秋の彼岸、中日を挟んで前後3日の間開扉され、自由に拝観することができる。

 

鎌倉時代創建の湯本地蔵堂がこのお寺の前身という。

本尊は「箱根の大地蔵」として親しまれてきた放光地蔵菩薩であったというが、幕末維新の戦火で焼失してしまった。

しかし、曽我十郎、五郎ゆかりと伝えられる地蔵菩薩像2躰は救い出され、裏山の曽我堂にまつられている。本堂の左奥に進むと墓地の横手を回り込むようにして石段が続いており、上りきったところが曽我堂である。

 

曽我とは、鎌倉時代の武士、十郎、五郎兄弟のこと。

彼らは鎌倉時代に父の仇討ちをはたしたことで知られ、江戸時代には繰り返し歌舞伎の題材になるなど、兄弟は後世に至るまで大変な人気を博した。

曽我堂に2躰ならんだ地蔵菩薩像は、それぞれが曽我十郎、五郎ゆかりの像という伝承がある。

2躰の地蔵はともに像高160センチあまりの立像。ともに宝珠と錫杖を持ち、よく似た姿であることから、いつの時代からか曽我兄弟の化身の地蔵などといわれるようになったのであろう。

 

 

地蔵菩薩像の印象

向かって右が五郎地蔵、左が十郎地蔵と伝えられている。

堂内でよく拝観することができる。

 

上にはよく似た姿と書いたが、よく見るとかなり違っているのがわかる。

五郎地蔵の方が胸など肉体の感覚があり、頬の張りもある。衣の襞も生き生きと流れる。しかし十郎地蔵の方がこうした部分が後退しているようで、おそらくそれは時代の差、すなわち五郎地蔵が鎌倉時代、十郎地蔵は室町時代以後の作と考えられている。

そのほか、宝珠を持つ左手の上げ具合も異なる(五郎地蔵の方が高い位置で掲げている)。また、衣が右手にかかってその左右にさがる様子も左右の像では異なっている。

 

どちらも玉眼を入れる。五郎地蔵の方は遠くを見ているかのようで、なんとも言えない表情が魅力的である。十郎地蔵の方が目の見開きが大きく、あごも力強く、若々しい雰囲気がする。

 

なお、五郎地蔵の像内より納入品が発見されている。それよると本像は鎌倉時代中期の1256年につくられ、作者は武蔵法橋康信であることが知られる。

五郎地蔵
五郎地蔵

岡田美術館について

岡田美術館は2013年に開館した新しい美術館である。

小田原駅か箱根湯本駅からバスに乗車し「小涌園」下車、すぐ。または箱根登山鉄道で小涌谷下車、徒歩15分くらい。

小涌谷駅からはかなりの上り坂なので、行きはバスで、帰りは駅まで歩くというのがいいかもしれない。

入館料は2800円。

 

仏教美術は5階展示室で見ることができる。

ガラスケース中の展示で、薬師如来像のほか、小金銅仏の誕生仏、鎌倉時代の四天王像などが展示されていた。

四天王像は40センチくらいの像。大仏殿様の姿で、彩色がよく残る。まゆをつり上げ、体をひねって、強く敵を威嚇する様子は小像ながら迫力が感じられる。

 

 

岡田美術館の薬師如来像

本像はもとは滋賀の潮音寺というお寺に伝わったものとのこと。

像高1メートルあまりの坐像で、一木造。11世紀の作。

 

顔は大きく、上半身は高く、脚部は小さめである。左足を上に組む。

目は切れ長とせず、鼻、口の小さめ。肉髻は高く、螺髪は小粒でていねいに刻み出されてる。

優しい雰囲気があり、遠くの超越的な存在というよりも、近くで見守っている温かな仏さまという感じがする像である。

体は抑揚があまりないが、腹のあたりの衣は臂だが紐状になって、前代(平安前期)の雰囲気がやや残る感じだが、全体的に平安時代中・後期の穏やかさのある像である。

 

 

さらに知りたい時は…

『早雲寺』(展覧会図録)、神奈川県立歴史博物館、2021年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』7、中央公論美術出版、2009年

「新出の大仏殿様四天王像について」(『国華』1186)、 山本勉・和田圭子、1994年9月

『箱根の文化財』14、箱根町教育委員会、1979年

『神奈川県文化財図鑑 彫刻篇』、神奈川県教育委員会、1975年

 

 

仏像探訪記/神奈川県

岡田美術館
岡田美術館