来迎寺の如意輪観音像

  土紋がよく残る像

住所

鎌倉市西御門1−11−1

 

 

訪問日

2008年4月19日、 2013年11月25日

 

 

拝観までの道

鎌倉には来迎寺という名の寺が2つある。ひとつは海に近い材木座に、そしてもうひとつがこの西御門にある来迎寺(らいこうじ)である。

鎌倉駅から鶴岡八幡宮の境内を通り抜けて、北北東の谷戸へ。徒歩で25分ぐらい(最寄りバス停は「大学前」)。小町通りや八幡宮の賑やかさとは対照的な静かな住宅地の中にある寺である。宗派は時宗。

格式張った山門などなく、夏の草花に導かれて階段をのぼっていくと本堂の前にでる。拝観希望のものはインターホンで呼ぶようにとある。

なお、雨天時や法要がある日は拝観が不可となるので、直前に電話で問い合わせて行くのがよい。

 

堂内には、本尊(江戸時代の阿弥陀如来坐像)を中央に、向かって右に如意輪観音像、左に地蔵菩薩像と抜陀婆羅(ばつだばら)尊者像が安置されている。

 

 

拝観料

200円

 

 

仏像のいわれ

ここが西御門と呼ばれるようになったのは、頼朝の墓であった法華堂の西にあたるからという。この法華堂を含め、このあたりにはかつていくつもの寺院が甍を並べていたが、今はこの来迎寺だけとなった。本堂内の本尊以外の仏像は、廃絶した近くの寺から移されてきた。

 

如意輪観音像は、江戸期の史料によれば近くの如意輪堂に安置されていたといい、また江戸初期の紀行文である『金兼藁』に記載のある西御門の光福寺(この寺についてはほとんどわかっていない)の如意輪観音がこの像であるともいう。

そうした変遷の末、頼朝墳墓のあった法華堂(鶴岡八幡宮寺の管轄下にあった)に移されたが、近代初頭の神仏分離に際してこの法華堂もまた廃されたため、来迎寺へと移坐されたと考えられている。

 

 

拝観の環境

照明が明るく、よく拝観できる。

 

 

仏像の印象

寄木造。表面の色は落ち、全身ほぼ漆地の黒色をしている。右膝をたてた半跏像で、手は6本という、我々がよく知る姿である。

肉づきは豊かであり、やや下膨れで、全体の印象として生々しささえ感じられる。玉眼が像に生気を加えている。高さは約1メートルと、等身大か等身よりやや大きめで、近くで見た印象はなかなかに強い。不思議な魅力をたたえた仏像である。

大きな冠(金銅製)をかぶっているが、これは当初のものということだ。ほかのアクセサリーや持ち物のうち、胸飾、臂釧、腕釧は当初のもの。台座、光背は後補である。

冠の透かし彫りの向こうに見えるまげは高く、大きい。

 

大きな冠とまげがのった頭部を右に傾け、立てた右足もこれと平行するように斜めに、また左の2本の手にも同じ方向に傾きがつけられている。体(胸、腹)はほぼまっすぐであるが、これに対して、右下から左上へという方向が強く打ち出されることで、像の印象を強くしているのだと思う。

『神奈川県文化財図鑑 彫刻篇』によるとこのような強い傾きは南北朝時代(14世紀)ごろの特徴を示すというが、「鎌倉西御門・来迎寺の如意輪観音坐像について」(『神奈川県立歴史博物館総合研究報告、総合研究−中世東国における文化の移入』)では、鎌倉時代にさかのぼり得ると論じられている。

 

この像でほかに特徴的なのは土紋である。これは木の型によって輪宝などの形に抜いた土を衣の上に貼付けるもので、おそらく刺繍の立体感を表現しようとしたものであり、中世の鎌倉地方の彫刻で流行した(他の時代や地方では見られない)。その上に白の下地、さらに金泥を塗り重ねていたと思われるが、現状では土が直接見えている。幸いにも形が崩れていないため、当初の華やかさをしのばせる。

 

 

その他

本尊に向かって左側の地蔵菩薩像も、如意輪観音像と同様法華堂から移されてきた仏像である。それ以前については、西御門にあった報恩寺の本尊地蔵菩薩像がその廃絶後に(同じ西御門にあった太平寺を経て)法華堂に入ったと江戸期の複数の史料に見えるので、それがこの仏像のことであろうと考えられている。

きりりと見目うるわしい像で、岩座(朽木座)上に坐し、衣がその左右に垂れている。関東大震災による文化財被害調査にあたった田中豊蔵氏はこの仏像胎内に1640年の修理銘札があり、その中でこの像の造立は南北朝時代の1384年、作者は宅(托)間浄宏であると書かれていたことを報告しているが、この銘札は現存していない。

宅間(宅磨などとも書かれる)派は頼朝に招かれて鎌倉に下った為久の一派で、絵をよくした。埼玉県飯能市の法光寺に、この来迎寺の像とよく似た地蔵菩薩像(1386年作)が現存し、その銘文中にこの浄宏の名前が「絵所」として出ている。

 

堂の向かって一番左の立像は抜陀婆羅尊者像という。耳慣れないが、絵画にはいくつか作例があるそうだ。禅宗の浴室の主尊で、地蔵菩薩像同様報恩寺から移されてきたものと考えられている。室町時代頃の作という。

くせのある顔を横に向けたなかなか面白い姿の像である。胸板は厚みというか抑揚に欠ける。

 

 

もっと知りたい時は…

「都市鎌倉の宋風彫刻」(『仏教美術論集 様式論1』、竹林舍、2012年)、浅見龍介

『鎌倉×密教』(展覧会図録)、鎌倉国宝館、2011年

「鎌倉西御門・来迎寺の如意輪観音坐像について」(『神奈川県立歴史博物館総合研究報告、総合研究−中世東国における文化の移入』)、浅見龍介、神奈川県立歴史博物館、2003年

「報恩廃寺本尊像考」、三山進(『鎌倉彫刻史論考』、有隣堂、1981年)

『神奈川県文化財図鑑 彫刻篇』、神奈川県教育委員会、1975年

 

 

仏像探訪記/神奈川県