明王院の不動明王像

  毎月28日に開扉

住所

鎌倉市十二所32

 

 

訪問日 

2012年10月28日、 2015年6月28日

 

 

 

拝観までの道

鎌倉駅から金沢八景駅行き、鎌倉霊園正門前太刀洗行き、ハイランド行きの京急バスに乗車し、「泉水橋」下車、北へ徒歩3分。

本尊の五大明王像は毎月28日に開扉される。

 

* 鎌倉五大堂明王院ホームページ

  

 

拝観料

志納

 

 

お寺や仏像のいわれなど

鎌倉観光の中心といえば、誰もがすぐ思う浮かべるのが円覚寺、建長寺、鶴岡八幡宮といった寺社であろう。一方、明王院のある十二所(じゅうにそ)は、鎌倉の東のはずれといった感がある。

だが、かつては八幡宮の東側は「大倉」と呼ばれ、幕府や頼朝の墳墓堂(大倉法華堂)などがつくられ、鎌倉のいわば心臓部であった。大倉の地域はそこから東へと大きく広がっており、十二所のあたりまでが大倉であったらしい。

明王院は、いわば鎌倉時代の鎌倉の中心部の奥座敷といった場所につくられた寺院といえる。

創建は13世紀前半、鎌倉幕府4代将軍の九条(藤原)頼経(よりつね)によってつくられた寺である。

 

江戸時代前期に大きな火災があり、それ以前の仏像の多くが伝わらないのが残念だが、幸いにも本尊の五大明王のうち中尊の不動明王像が創建当初の作と考えられている。

真言宗寺院。

 

 

拝観の環境

五大明王像は、本堂奥の空間に安置され、毎月28日に開扉される。13時にご法要がはじまるので、その少し前にうかがうとよい。

ご法要は40分余りだったように記憶する。ご住職のご法話の後、ご本尊の前に進んで拝観させていただくことができた。

 

 

仏像の印象

中尊の不動明王像は、像高84センチの坐像。針葉樹材の寄木造、玉眼。

後補部分としては、腹の前に垂れる条帛の先端、弁髪の先端、持物、腕飾りなどの装身具。また、玉眼や表面の古色や台座、光背も後補だが、本体の保存状態はよい(2014年2月〜9月にかけて修復が行われた)。

 

特に目を引くのは、生々しく感じられるほどの忿怒の顔立ち、堂々とした上半身、ばさばさと自在に波打つ下半身の衣である。

 

まず顔立ちだが、巻き毛、片目をすがめ、口をゆがめて左右の牙を互い違いに出す。いわゆる十九観の不動明王の姿である。

平安時代初期に不動明王の造像がはじまったときには、東寺講堂五大明王像中尊がそうであるように、総髪で顔を歪めない姿だった。いわゆる大師様の不動明王像である。その後、醜い姿ながら人々を強力に救うというこの尊格のさまを表現した十九観の不動像が導入されたのだが、当時の貴族社会にあっては、ただただ醜い像というのは好まれなかったとみえて、気品漂う像が多くつくられた。

そうした平安時代後期の不動明王像に比べ、本像の表情は直接的に迫ってきて、たじろぐほどだ。失礼ながら、憎々しいと表現したくなるほどの強いお顔である。

巻き毛は生き物であるかのようにうねり、後頭部までたっぷりとはやしている。つり上げた太い眉、その間の額には3本線が入る。小鼻を大きくとり、頬は豊かに張る。鼻の下はすぐ口で、強く歪めている。

 

上半身は、露出した右肩から胸にかけて実に堂々として、単純ながら張りを感じるみごとな曲面であらわされている。腕にも力がこめられ、また構えも緊張感がある。

若干猫背ではあるが、頭、体部、脚部のバランスはたいへんよい。

 

左右に2躰ずつ安置された4明王は、納入品から江戸中期の1712年の補作であることが知られる。作者は三橋左京重信と三橋小左衛門重房という鎌倉仏師である。

 

 

肥後定慶の作か

本像の作者に肥後定慶をあてる説があり、有力である。

明王院は4代将軍九条頼経が1231年に造立を発願し、1235年に完成、供養が行われた。結果的にこれが鎌倉将軍の発願による最後の寺院となった。

本尊も1231年に造像が開始され、お寺の供養までに完成をみている。これらは鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』に記載されているのだが、残念ながら仏師の名前は書かれていない。

何といっても、将軍御願の寺院の本尊である。当然それ相応の仏師の手になったであろう。また、記述から、京でつくり運んだのではなく、鎌倉でつくられた像であることは確かである。そうした条件によって、この時期鎌倉幕府関連の造仏に関与した仏師中より絞り込んでいくと、本像の作者として最も可能性の高い人物は「肥後法橋」として史料にあらわれる肥後定慶である。

 

この1230年代は、南都復興の造仏で活躍した運慶や快慶はすでに没し、その次の世代の活躍期にあたる。鎌倉時代には複数の定慶という名の仏師が存在するので、他と区別するために「肥後定慶」と呼びならわす定慶は、運慶・快慶後の時代を代表する慶派の実力仏師である。1184年に生まれ、1256年までは活躍していたことが知られるが、没年は不明(運慶の長子、湛慶より11歳年下である)。

その現存作品としては、東京藝術大学蔵の毘沙門天立像(1224年)、京都・大報恩寺の六観音像のうちの准胝観音像(1224年)、鞍馬寺の聖観音像(1226年)、兵庫・石龕寺の仁王像(1242年)が知られる。もし、明王院の不動明王像が肥後定慶の作であれば、鞍馬寺像と石龕寺像の間となり、50歳頃の作ということになる。彼は直近にも関連する像を手がけ、また将軍頼経や執権北条泰時とも接点があったとされる。

 

では、たとえば大報恩寺の六観音像と本像とを比較して、同一の作者であるということがいえるだろうか。

もちろん菩薩像と明王像を単純に比較することは難しいが、頭体のバランスのよさ、単純だが豊かな曲面で構成された胸部など、共通項は確かにある。また、脚部の衣だが、肥後定慶は、大報恩寺の像でこれまでの定型的な曲線の連なりを否定し、ばさばさとした表現によって自然な布の感じを出そうとしている。それを座らせれば、あの不動像の衣の表現となるようにも思える。

 

しかし一方、肥後定慶の現存作は、優美で安定感を大切にしているように感じる。明王院像の直裁的な怒りの表現は異質なようも思え、同一の作者の像とするにはためらいも感じてしまうが、いかがであろうか。

 

 

その他

鎌倉時代の鎌倉において、主流であった宗派は天台、真言の密教であった。今でこそ建長寺をはじめ鎌倉五山と総称される臨済宗のお寺の存在感が抜群の鎌倉だが、その多くは鎌倉時代の後半の創建であり、また、どちらかといえば武士の私的な参禅の対象であって、あくまで公的に行われる宗派は密教であったのである。朝廷が行ってきた国家護持のための修法に対して、幕府は武家社会の護持のために宗教的にも形を整える必要があり、その中心が鶴岡八幡宮寺であった。

 

密教といっても、天台宗の山門派(比叡山)、寺門派(園城寺)、また真言宗の各派とあるが、鎌倉幕府の初期には頼朝とのつながりから寺門派が力が強かった(ちなみに、現在の鎌倉には寺門派天台宗のお寺はない。いかに当時と現在の鎌倉の宗教地図が変わってしまっているか、このことからも明らかである)。

 

三代将軍実朝が公暁により殺され、源氏は断絶するが、公暁は園城寺とつながりが深かったために寺門勢力は後退、真言宗(広沢流)や山門派の力が増す。また、4代将軍として頼朝と遠い親戚にあたる九条頼経が京より迎えられるにあたり、さらに「本場」の密教の修法が鎌倉へ移植されたと思われる。

近代初期の廃仏によって鶴岡八幡宮がかつての密教寺院の面影をとどめていないこともあり、明王院およびその本尊の不動明王像は、鎌倉密教の伝統を今日に伝える大変貴重な存在といえる。

 

 

さらに知りたい時は…

『月刊文化財』585、2012年6月

『鎌倉×密教』(展覧会図録)、鎌倉国宝館、2011年

『鎌倉時代造像論』、吉川弘文館、塩澤寛樹、2009年

『鎌倉の文化財』13集、鎌倉市教育委員会、1983年

 

 

仏像探訪記/神奈川県