影向寺の薬師三尊像

  年に数日間、収蔵庫を開扉

住所

川崎市宮前区野川419

 

 

訪問日

2007年1月3日、 2013年1月3日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

川崎市教育委員会・文化財さんぽ

 

 

 

拝観までの道

影向寺(ようごうじ)まではJR南武線・東急東横線の武蔵小杉駅前から鷺02系統、杉06系統、杉09系統のバスで「影向寺」下車。バス停のすぐ近くに、影向寺の方向を指す看板が出ているので、それに従って北西方面に徒歩5〜10分くらい。

収蔵庫は普段は扉が閉まっているが、初詣(1月1日〜3日)、春秋彼岸中日、縁日(11月3日)、除夜(12月31日23時〜1月1日1時)に開扉され、自由に拝観できる(悪天候の時は開扉されない場合がある)。除夜以外は、9時〜16時。

 

威徳山影向寺ホームページ

 

 

拝観料

特に拝観料などの設定はなかった。

 

 

お寺のいわれ

奈良時代以前からの寺院であるらしく、境内から古い瓦が出土し、また古代の塔の礎石(心礎)も残されている。しかしながら、古い記録は失われ、寺の変遷を詳しく知ることはできない。

近くには橘樹郡の郡衙があったと考えられており、それとの関係もあった寺院かとも思われる。

考古学の成果によれば、次のような変遷をたどったようである。はじめ小規模な金堂からスタートし、奈良時代から中世にかけてはある程度大きな規模の金堂をもつお寺であった。しかしその後衰退して仮堂の時期が続き、中世の後半に現在のお堂の前身となるお堂が建てられ、江戸時代半ばに今のお堂に立て替えられたと考えられている。

 

宗派は天台宗。本堂(薬師堂)は内陣と外陣の間を格子で仕切った、密教本堂の形式である。

かつては永興寺ともいったらしい。

 

 

拝観の環境

本尊は平安時代後期の薬師三尊像で、本堂の裏に造られた耐火建築の収蔵庫に移されている。

拝観はお堂の扉口からガラスごしにという条件のため、見やすいとはいえない。体を近づけるて自分の影をつくると、なんとか見ることができる。

 

*寅年の2010年には稲毛七薬師のひとつとして、ご開帳があった。4月4日から11日の間、収蔵庫のガラス戸が開かれて、たいへんよく拝観出来た。

 

 

仏像の印象

中尊の薬師像は坐像で像高約140センチ、脇侍の菩薩像は像高170センチ余である。一木造で、中尊の材はケヤキだが、脇侍はサクラという。木の素地をあらわすが、後補部分は少なく、状態はよい。

全体にがっしりした造りで、腕など太いが、一方、表情は柔らかで、衣文の彫りも浅い。平安前期の仏像の要素と後期の仏像の特徴を合わせ持ち、かつ地方の仏像の素朴さやおおらかさも持っている像であると思う。

 

脇侍像は中尊と比べさらに穏やかな表現であり、中尊よりも遅れて造られたという説もある。また両脇侍でも表現がやや異なるため、これももともと一具ではなかったのではないかとの意見もあるようだ。

 

中尊は額を広くとり、面長で、やや素朴さを感じる表情。上半身はどっしりと大きく、膝の張りも大きくとって安定感があり、衣の流れもなかなか美しい。

脇侍像はすらりと高く、ほぼ直立する。頭上のまげは低い。

 

 

その他1

収蔵庫にはほかに二天像と十二神将像が安置されている。

十二神将像は像高70センチほどの像で、南北朝時代ごろの作、12躰揃って伝来している点が貴重である。ヒノキの割矧(わりは)ぎ造、玉眼。生き生きと躍動的な像である。

各像の姿は、鎌倉の覚園寺の十二神将像鎌倉国宝館の十二神将像と共通し、いわゆる大倉薬師堂様の像と考えられるが、残念ながら薬師三尊像の脇侍像の後ろに安置されているので、一部しかみることはできない。

 

境内の太子堂に安置される聖徳太子像は、もと近くにあった観音堂に安置されていた像という。像高90センチほどで、室町時代ごろの作。

 

 

その他2

山門の脇に古代に造られた塔(三重塔と思われる)の心礎が置かれている。花崗岩製で、長径が180センチくらい。いつのころからか影向石(神仏が姿を現す岩の座)と呼ばれるようになり、穴に溜まった水が眼病に効く等、近在の信仰を集めたという。

また、本堂にはたくさんの絵馬が懸けられていて、このお寺がいかに厚く信仰されてきたのか、感じとることができる。

 

 

さらに知りたい時は…

『かわさきの文化財入門』上、川崎市教育委員会、2013年

『古刹 影向寺』、影向寺発行、2006年

『川崎市文化財図鑑』、川崎市教育委員会、1992年

『神奈川県文化財図鑑 彫刻篇』、神奈川県教育委員会、1975年

 

 

仏像探訪記/神奈川県