八菅神社宝物館の諸像

1月1日~3日と3月28日に宝物館開扉

住所
愛川町八菅山139


訪問日 
2020年1月2日

 



拝観までの道
相模原市と厚木市にはさまれるようにして、愛川町(あいかわまち)という町がある。丹沢山地の東の端にあたる。
八菅(はすげ)神社はこの愛川町にある。
交通は南側の海老名か厚木からのバス(神奈川中央交通)。海老名駅西口(相鉄や小田急の側ではなく、JR海老名駅の下にある)からだと「桜台」経由愛川バスセンター行きで「一本松」下車。厚木バスセンター(小田急線本厚木駅から徒歩)からだと上三増行きか愛川バスセンター行きで「一本松」下車。厚木バスセンターからの方がバスの便数は多い。
「一本松」からは西へ向かう。中津小学校を過ぎたら下り坂となり、八菅橋で中津川を渡る。渡ると今度は上り坂となる。八菅神社の下の鳥居までバス停からは徒歩20分くらい。
鳥居の先に耐火式の小さな宝物館がある。開くのは正月の1~3日と例祭日の3月28日のみ。
なお、神社の本殿はその向こう、きびしい坂のずっと上にある。

問い合わせは、同神社の管理担当である中津神社(愛川町田代)。


拝観料
100円


神社や仏像のいわれなど
八菅神社は古代草創というが、その歴史は伝説につつまれて、よくわからない。古くから神仏が一体となった信仰の地であったようで、八菅山七社大権現といい、別当寺は光勝寺と称した。
平安末ごろの経塚が発見されており、また頼朝、北条時頼、足利尊氏などのかかわりが伝えられる。鎌倉時代後期の1291年の碑伝(ひで、峯入りの修行の証しとして修験者が建てたもの)が宝物館にあり、中世以来修験道がさかんであったことが知られる。
近世には聖護院の本山派修験となり、たくさんの坊がつくられて修験集落を形成していたようだが、近代がはじまるとともに修験者は還俗し、寺も廃された。
かつての仏教、修験道関係の資料で残されたものを宝物館で見ることができる。


拝観の環境
宝物館は小規模だが、ケース内にさまざまな資料が所狭しと並べられて、興味深い。


仏像の印象
仏像は、聖観音像、六地蔵像、役行者・前鬼・後鬼像、賓頭盧尊者像などが展示されていた。

聖観音像、六地蔵像は小像で、聖観音像の像高は20センチほど。銅造で細身、ほぼ直立する。なかなか理知的なきりりとしたお顔である。

六地蔵像の像高は各15センチほど。台座を合わせて20センチ弱。伝承では北条時頼自刻というが、そこまではさかのぼらないまでも中世の作であろう。六地蔵のセットで古い仏像というのはあまり残っていないので、貴重といえる。
それぞれ一木で刻まれ、素朴ながらもしっかりと目鼻や衣が刻まれる。
合掌像が2体、右手を下げ左手で宝珠を持つ像が2体、前で箱を持つものが1体で最後の1体は化仏のように衣の下で手を組んでいる。
桐製の箱の中で仕切られて納められている。ガラスケースの中に置かれて、上から見下ろすようにして拝見させていただいた。

役行者像と賓頭盧尊者像は像内銘がある。造像の時期が推定できる関東の仏像として、貴重である。
役行者像は像高130センチほどの倚像。寄木造で材はヒノキという。玉眼は失われている。室町時代の作と考えられ、像内に書かれた戊申の文字から1548年のことかと考えられている。
賓頭盧尊者像は像高約70センチの坐像で寄木造、彫眼。長文の銘文があり、足利尊氏、武蔵守師直、八菅山別当などの本願によってつくられたと記される。


さらに知りたい時は…
『鎌倉ゆかりの芸能と儀礼』(展覧会図録)、神奈川県立歴史博物館、2018年

「足利氏と仏像・仏師」(『足利尊氏再発見』、吉川弘文館、2011年)、山本勉  
『古仏微笑 かながわの仏像』、湯川晃敏・山田泰弘、朝日新聞社、1985年
『愛川町郷土誌』、愛川町、1982年
『修験集落八菅山』、慶應義塾大学文学部宮家準研究室、1978年


仏像探訪記/神奈川県

六地蔵像
六地蔵像