一向寺の阿弥陀如来像

  衣の上に多数の結縁者の名前が

住所

宇都宮市西原2-1-10

 

 

訪問日 

2011年2月27日 

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

宇都宮の歴史と文化財

 

 

 

拝観までの道

一向寺は、東武宇都宮駅からは西南に徒歩15分。JR宇都宮駅西口(12番乗り場)から関東バス・六道経由鶴田駅行きや運転免許センター行きなどで「宇女高入口」下車、南に徒歩約5分。

駅西口の駐輪場にレンタサイクルがあり、1回100円で貸してくれるので、天気がよければ県立博物館などとともにまわるととても快適。

 

重要文化財に指定されている銅造阿弥陀如来坐像は、本堂に向って左手(南側)の収蔵庫内に安置されている。日曜、祝日は開けているので、自由に拝観できる。その他の日は事前に連絡してお願いする。

 

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拝観料

特に拝観料の設定はなかった。

 

 

宇都宮氏による造像

宇都宮氏は藤原氏の流れを汲むと称する北関東の名族。宇都宮は宇都宮氏の根拠地であると同時に、同氏が別当職をつとめていた宇都宮二荒山神社の門前町としても発展した町である。

宇都宮氏ははやくより清和源氏との強いつながりをつくり、鎌倉幕府の重臣でもあった。仏教信仰も厚く、代々の当主は出家入道したといい、鎌倉初期の宇都宮朝綱は東大寺復興にあたって大仏の左脇侍の造仏を受け持ったと記録される。また、支族の笠間時朝は、領内の笠間(茨城県)に多くの仏像を造立したことでも知られる。

一向寺の銅造阿弥陀如来像は清巌寺の鉄塔婆とともに、宇都宮市内に伝来する宇都宮氏の造像として貴重な遺品である。 

 

 

お寺や仏像について

一向寺は時宗の寺院。宇都宮氏ゆかりのお寺で、7代当主宇都宮景綱(鎌倉時代中期の人)によって開かれた。

銅造阿弥陀如来像は客仏。もと長楽寺の本尊であった。長楽寺は12代当主宇都宮満綱(室町時代前期の人)によって菩提寺として建立された。この仏像も満綱によってつくられたものである。

 

16世紀末、宇都宮氏は豊臣秀吉によって改易され、江戸時代には譜代大名が入れ替わりながら宇都宮を統治した。江戸前期に宇都宮に入った本多正純は城の改修を大規模に行い、その影響で長楽寺は一向寺の東隣に移ってきた。その後、近代初期に長楽寺は廃寺になり、本尊は一向寺に移された。

 

 

拝観の環境

近くからよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

像高約1メートルの銅造。定印。蓮台の上部は鉄、下部は宇都宮らしく大谷石でできていて、珍しい。

肉髻は自然に盛り上がる。頭部はやや斜め下を向く。顔は若干平面的な印象で、目は切れ長にせず、上くちびるはすこしめくれ上がる。衣のひだも形式的で、あまり勢いというかそういうものは感じられない。

 

この仏像がユニークなのは、衣の全面に銘文が刻まれているところである。銘文は像内や背面に書かれることが多いが、このように体全体の衣の上に書かれるのは珍しい。文字の数は1000以上。300人以上の結縁者の名前が書かれている。 当時の宇都宮の人口は2千人くらいという推定があるということなので、この結縁者の人数がいかに大きなものかわかる。

左肩に一向寺の住職・忍阿が発願し、宇都宮満綱を大檀那としてつくられた旨が書かれる。上述したように、この仏像は別の寺の本尊であったのだが、もともとこの一向寺と深いつながりのある仏像であったわけである。

背面左側に、室町時代前期の1405年の年と制作者として大工秦景重の名前がある。

 

 

その他

この仏像はまた「汗かき阿弥陀」とも呼ばれる。大きな災いの際に汗をかいて知らせるといい、当主の宇都宮氏に関する異変や、日露戦争、太平洋戦争の時にも汗をかいて大事を知らせたという。

 

 

さらに知りたい時は…

「宇都宮の古刹・一向寺」(『大法輪』83巻7号)、佐藤泰司、2016年7月

『宇都宮市史2(中世史料編)』、宇都宮市史編さん委員会、1980年

『下野の仏像』、野中退蔵、月刊さつき研究社、1976年

「宇都宮氏とその造仏」(『Museum』144)、佐藤昭夫、1963年3月

 

 

仏像探訪記/栃木県