百草八幡神社の阿弥陀如来像

  毎年9月なかばの祭礼時に公開

住所

日野市百草867

 

 

訪問日 

2012年9月16日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

日野市観光協会・八幡神社

 

 

 

拝観までの道

百草(もぐさ)八幡神社は、京王電鉄京王線百草園駅下車、西南に徒歩10〜15分。京王電鉄が所有する百草園の隣にある。

 

阿弥陀如来像は、本殿に向って手前右側に建つ奉安殿(収蔵庫)内に安置され、秋の例大祭の時に公開される。

例大祭は9月第3土曜日とその次の日曜日に行われるのが通例で、開扉はその2日め、日曜日に行われる。問い合わせは日野市観光協会へ。

 

 

拝観料

特に拝観料等の定めはなかった

 

 

仏像のいわれなど

もと、真慈悲寺というお寺にまつられていた仏像である。というのも、この仏像の背に刻まれた銘文に、このお寺の名前が出てくるためである。

 

真慈悲寺は幕府祈願所であった有力寺院で、『吾妻鏡』に名前が見える。お寺があった場所は不明だが、百草八幡神社の隣、今の百草園がその場所である可能性が高い。

真慈悲寺は室町、戦国時代ごろに衰え、江戸時代におそらくその後身の寺院としてつくられた松連寺(黄檗宗寺院、八幡神社の別当寺でもあった)が仏像を引き継いだと思われる(一度土に埋もれて、それがのちに出現したとも)。

その松連寺も近代初期に廃寺となり、仏像は八幡神社に引き取られたが、当時の仏教弾圧の風潮のために隠されていたらしい。かつて村の子どもがいたずらをして床下に石を投げると金属音がしたという。

その後、一時氏子代表のもとに預けられていたが、1963年に神社の中に奉安殿を設け、移安された。

 

 

拝観の環境

拝観は奉安殿の扉口から。奉安殿は小さなお堂で、像までの距離が近く、ライトを用意してくださっていたので、よく拝観できた。

 

 

仏像の印象

阿弥陀如来像は像高約40センチの坐像。鎌倉時代中期の銅造の仏像である。

全体に素朴で親しみやすい仏像である。在地の仏師の手になる作であろう。

顔つきは優美さや威厳といった風はなく、素朴な地方の人々の顔立ちを思わせる。狭い額、目鼻眉を近づけてあらわし、鼻の下には人中がくっきりと出ている。

肉髻は低く、また地髪部分との境はなだらかに連続し、そこにすきまを開けながら螺髪がつくられている。

体部は横長に見えるほど大きくつくり、肩を後ろに引いてそりかえり気味に座る。脚部は逆にあまり左右に張らずに小さめとする。衣のつけ方や衣文線の流れも、どちらかといえば稚拙な印象がある。

 

手は腹前で合わせているのだが、面白いのは親指と人差し指で丸をつくっているその人差し指の先が親指の向こう側からわずかに上に出ていることである。こうした定印の変形は、平安時代の仏像で数点、年代の近い鎌倉時代中期頃の仏像では鎌倉大仏が同じ形である。こうした印相が何か教義的な意味を持っているのかどうかは分っていない。

 

 

銘文について

像の背に比較的長文の銘を刻む。

それによると、本像が阿弥陀如来であること、1250年につくられたこと、施主は源氏とだけあって、名前が書かれないのは、女性であるからであろうか。願主として僧の慶祐とあるが、残念ながらこの人物については未詳。また、作者名も記載されていない。

銘文は、「皇帝(天皇)」「日本主君(将軍)」「当国府君(武蔵守護職北条時頼をさしていると思われる)」「地頭名主(領主)」と、位の高い者から低い者へと列挙してその安穏を祈るとしている。また、それと対のように、「南閻浮提(仏教の世界観で、須弥山の南方の大陸)」「日本」「武州(武蔵国)」「多西(郡)」「吉富(郷)」「真慈悲寺」と、広い範囲から次第に絞り込んでいく。大上段にふりかぶっているような書き方は、自分のいる世界を特定したいとする欲求によるものであろうか。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』6、中央公論美術出版、2008年

『日野市史 通史編』2上、日野市史編さん委員会、1994年

 

 

仏像探訪記/東京都