大寺薬師の諸像
若々しい薬師如来像と力強い四天王像

住所
出雲市東林木町461
訪問日
2025年7月22日
この仏像の姿は(外部リンク)
万福寺(大寺薬師)の由来(浄土宗極楽寺のホームページ)
拝観までの道
大寺(おおでら)薬師は、電鉄出雲市駅から一畑電鉄で大寺(おおてら)駅下車、北へ約10分。
途中にバス停があり、これは出雲市駅からのスサノオ観光大寺線というバスの終点で、便数は少ないがうまく時間が合えばこの路線も使える。
拝観は大寺薬師奉賛会に事前予約が必要。
*鳶巣コミュニティセンター・大寺薬師
拝観料
500円
お寺や仏像のいわれなど
創建は飛鳥時代。その後、行基がこの地を訪れて多くの仏像を刻み、安置したと伝える。もとは現在地よりも北側にあり、大寺の名にふさわしい大伽藍が広がっていたという。
一方、今大寺薬師がある谷の南側にも8世紀の遺跡が見つかっており、この地域の有力氏族のものと思われる邸宅や寺院の跡と考えられている。ただし、大寺薬師に伝わる仏像は平安時代の作と思われるので、この遺跡とは時代が合わない。発見された遺跡の寺院はいったん絶え、のちに再興されたその遺産が今の大寺薬師の仏像なのではないかなどと推測することもできそうである。
ともかく、かつてこの地域には古代寺院があり、一時は隆盛であったが、中世には衰え、残っていた堂宇も江戸時代前期に大規模な洪水、山崩れで埋まってしまったという。土中に埋もれた中から近隣の住民が仏像を掘り出し、万福寺(大寺薬師が浄土宗寺院として再興されたお寺とも)の境内に薬師堂をつくってまつったことから、大寺薬師の仏像は今に伝えられることになった。
1970年には耐火建築の収蔵庫が建てられ、現在、大寺薬師奉賛会が管理を担当されている。
拝観の環境
大型の収蔵庫の奥に壇がしつらえられており、薬師如来像を中心に5体の像、その手前左右に四天王像、さらに周りには破損仏が9体ほど(兜跋毘沙門天像や深沙大将像と思われる像や老相の神像など)、十二神将の小像などが置かれている。
堂内でよく拝観させていただける。
薬師如来像と菩薩像の印象
薬師如来像は像高130センチ余りの坐像。一木造で、材はクスノキという。背面と底からクリを入れている。10世紀ごろ、平安時代前期から中期にかけての作と思われる。
たくましいが、同時に若々しい印象もあり、とても魅力的な像である。
丸顔で、目は比較的見開き、やや釣り上がり気味とする。鼻梁は太い。神秘的で迫力あるお顔だが、不思議な華やかさがある。大きな耳たぶは外側へと反る。地髪と肉髻は明確な段によって区切らない。
上半身は大きいが胸、腹はあまり抑揚をつけていないように見える。しかし側面から見ると驚くほどの奥行きがある。左胸のところの衣に小さな渦巻きの文をつける。
右足を上にして組んだ脚部は、左右によく張り、膝のところを高くする。ひだは段をつくるように豪快に彫られる。
厳しい歴史を潜り抜けてきた像だが、そのわりに保存状態はよいと言えるだろう。しかし、像の表面は修補されているところもあるとのこと。
薬師如来像の左右に4体の菩薩立像が安置されている。いずれも一木造で、材はヒノキという。薬師如来像と同じく10世紀ごろの作と考えられる。
薬師如来像の左右に立つ像は日光菩薩像、月光菩薩像と伝えられる。ともに像高160センチ余りの立像で、冠をつけ、細身で、やや怒り肩である。伝日光菩薩像(薬師如来像に向かって右側に立つ)は目があるかなきかであり、口はへの字のよう。伝月光菩薩像は穏やかな顔つきだが、条帛や下肢の衣に工夫がこらされている。
さらにその左右の像はともに観音菩薩像と伝えられる。向かって左端の像は像高約160センチ。冠は着けていない。鼻口の傷みは激しいが、遠くを見ているかのような表情に何とも言えない味わいがある。一方、右端の像は少し小さく、像高は約150センチ。胸のところに大きな破損があるが、古仏の美しさが内から滲み出てくるような趣きがある。よく見るといくつか節が見え、霊木とされた特別な木を用いてつくられたものなのかもしれない。
四天王像について
5体の像が安置された壇の手前に四天王像が立つ。像高は180から190センチ台となかなか大柄で、実に堂々として素晴らしい。カヤの一木造。腕の方まで一木で彫り出そうとする意識が見られる。
平安時代の四天王像は、袖を大きくひるがえし、片足を上げた姿が左右の像で相称になるようにつくられることが多い。さらに言えば、ポーズは大きいがその割には迫力はそれほどでもないということがままあるが、この四天王像は異なる。少し開いた両足はともにしっかりと踏みしめており、鎧の意匠や衣の動きは派手さを抑えて、全体に堅実さが見られる。顔はしっかりと忿怒をあらわして迫力があるが、誇張に走りすぎるということはない。頭部は比較的小さくつくり、持物を持つ手の側の肩を少し後ろに引くなどして自然な体勢を保ち、下半身は太づくりにして、安定感を出している。
顔つきは、伝持国天像と伝広目天像はややおとなしめで、口を開けた伝増長天像、口を強いへの字の形にした伝多聞天像は怒りをあらわに出す。後二者は下半身もより重厚につくっている感がある。冠についても、伝持国天像と伝広目天像は筒状だが、伝増長天像と伝多聞天像の冠は小さめで、よく見ると精緻に文様が彫られている(ただし、この冠にも後補部分があるらしい)。
本像の制作年代はいつ頃であろうか。壇上の像と同じく10世紀ごろの作と考えるのが穏当なのであろうが、平安時代の多くの四天王像とは異なる特徴を奈良時代の四天王像の風を受け継ぐ古様さと見て、もう少し早い時期を想定する案も捨てがたい。また、本像のみ材がカヤであるのも気にかかる(もっとも、他の像の樹種についても検討の余地があるように思われる)。
平安時代前期の9世紀、朝鮮半島の新羅に対抗するため、山陰の各国に四天王像を安置し、修法を行うようにとの命令が出されていたりする。本像の造像背景として日本の境界の守護という意味合いがあった可能性もあると思われる。
さらに知りたい時は…
『祈りの仏像 出雲の地より』(展覧会図録)、島根県立美術館、2022年
『出雲と大和』(展覧会図録)、 東京国立博物館ほか、,2020年
『島根の仏像』(展覧会図録)、島根県立古代出雲歴史博物館、2017年
「古代の四天王信仰と境界認識」(『佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要』5)、近藤謙、2008年
『仏像』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2006年
「日本古代における木彫像の樹種と用材観 八・九世紀を中心に」(『MUSEUM』583)、金子啓明・岩佐光晴・能城修一・藤井智之、2003年4月
『西の国の仏たち』、柳生尚志、山陽新聞社、1996年
「古仏への視点13 島根・清水寺十一面観音立像 付大寺薬師仏像群続」(『日本美術工芸』664)、井上正、1994年1月
「古仏への視点12 島根・大寺薬師の仏像群--薬師如来・四天王像」(『日本美術工芸』663)、井上正、1993年12月
『仏像を旅する 山陰線』、至文堂、1989年
→ 仏像探訪記/島根県