高賀神社の仏像・神像群

  信仰の山に残る神・仏

住所

関市洞戸高賀

 

 

訪問日 

2009年5月5日 

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

高賀癒しの郷・高賀の仏像

 

 

 

拝観までの道

高賀(こうか)神社への道は、JR岐阜駅・名鉄岐阜駅から岐阜バス板取線で「高賀口」下車、徒歩約50分である。

道路が整備され、登り坂ではあるがそれほどの急坂でなく、気持ちよく歩くことができる。

バス停「高賀口」のすぐ前が板取川(長良川支流)にかかる橋なのでこれを渡り、すぐ左へ。板取川のさらに支流である高賀川をさかのぼる、ほぼ一本道である。

2キロ強行くと、左側に蓮華峯寺がある。この寺ももとはおそらく高賀神社と一体、あるいは高賀神社の社坊のひとつであったのだろう。神仏分離にあたって高賀神社の仏教遺宝を移して独立した寺院としたものの、その後無住となってしまい、宝物はふたたび高賀神社に戻された。現在は、円空仏は高賀神社すぐ下の円空記念館に、それ以外の仏像、懸仏、経典類は高賀神社の収蔵庫に納められている。

蓮華峯寺からさらに1キロ強のぼっていくと、高賀神社に着く。

 

*ただし、岐阜バスの岐阜板取線は2011年3月をもって一部区間が廃止されてしまい、その部分が関市板取地域バスに引き継がれた。従って、高賀神社の最寄バス停である「高賀口」までは途中乗り換えが必要となっている。
JR岐阜駅・名鉄岐阜駅からは岐阜バス岐阜板取線、関駅西口の関シティターミナルからは関板取線(関市自主運行バス)、もしくは美濃市駅からは牧谷線(美濃市自主運行バス)に乗車し、終点の「ほらどキウイプラザ」で板取地域バス(板取ふれあいバス)に乗り換えると、「高賀口」まで行くことができる。
また、「ほらどキウイプラザ」からオンデマンドの洞戸地域バスも利用することができるらしい。

 

収蔵庫の拝観は、かつては円空記念館と共通券があったが、現在は別運営となり、高賀神社の社務所に申し出る。

ただし、行事等で不在となる場合もあるそうなので、事前に電話で確かめてうかがうのがよい。

 

 

拝観料

志納

 

 

高賀神社について

長良川西岸の山地の中の最高峰が高賀山(こうかさん、1224メートル)である。濃尾平野から仰ぎ見ることができる名峰で、さらにその北の白山信仰の影響も受けつつ、古代以来山岳信仰の山であった。その周囲には6つの修験の道場が設けられたが、それは高賀神社(関市)、滝神社(美濃市)、金峰神社(美濃市)、星宮神社(郡上市)、本宮神社(郡上市)、新宮神社(郡上市)の六社である。

伝説によれば、奈良時代、この地には牛に似て、天を飛び、田畑を荒らす鬼が棲み、朝廷の命を受けて藤原高光という者が退治にやってきた。鬼との戦いは長年に及んだが、虚空蔵菩薩の加護を得て遂にこれを倒し、山を守るために山麓に6つの社を建てたとされる。

 

実際にはこの地域に残る遺品は平安時代以後のものであり、平安後期から鎌倉時代のころ、厳しい行を通じて神仏につかえ、その加護を得て人々を導く修験者たちの活動の場として栄えたと思われる。その後戦国時代に一時衰えたが、江戸時代になると高賀六社巡りが盛んとなった。円空もこの地を訪れて、たくさんの仏像を残している。

修験道は神仏が一体であるがゆえに、近代初期の神仏分離は一般の寺院にもまして大変な出来事であったと思われるが、高賀の六社は今日まで揃って存続している。それぞれに古代や中世の遺品を所蔵するが、なかでも高賀神社は数多くの宝物を伝えている。

 

 

拝観の環境

高賀神社の収蔵庫の中には、数多くの仏像、神像、懸仏、経典類がガラスケース中に展示されている。室内は明るく、よく拝観できる。

 

 

仏像の印象

正面には男女の神像がならぶ。一木造の小像で、単純な線で刻まれているが、表情が豊かであり、彩色もされてなかなか味わい深い像と思う。

 

仏像はそのほとんどが破損仏であり、痛々しい。神社が衰退した中世の後半か、近代初期の廃仏の時期に損傷を受けたものであろう。

その中で比較的保存状態がよいのが、大日如来像と虚空蔵菩薩像である。

大日如来像は半丈六の坐像で、この像のみガラスケースでなく、格子の中に安置される。脚部や腹部に傷みが見えるが、上半身は状態がよい。平安後期の穏やかな雰囲気を持つ像で、もと大日堂というお堂の本尊であったというが、また高賀神社の本殿に安置されていた時期があったとも伝える。そうすると、高賀神社の本地仏はかつては大日如来とされていたのかもしれない。

その後高賀神社の本地仏は、その理由は明らかでないが、虚空蔵菩薩とされるようになった。高賀神社に伝来する鎌倉時代の懸仏の銘文にも、本地仏として虚空蔵菩薩の名前が明記されているものがある。収蔵庫に入って右奥のケース中に安置されている虚空蔵菩薩像は室町時代の作で、近世の箔がつけられているが、保存状態は比較的よく、この神社の本地仏としてつくられたものと思われる。

 

破損仏中の1躰に、像内に墨書銘のある像がある。約90センチの像高の菩薩形坐像である。腕、脚は失われ、上半身のみとなっている。体は極めて扁平で、顔も柔和だが抑揚があまりない。まげは低く、地髪部分には6つの頭上面をつけていたのかと思われる穴が残る。そうだとすると本面と合わせて七面の菩薩ということになり、類例がない。

頭体部は一木でつくり、頭と体はそれぞれ一度割いて大きく内ぐりしている。その背中の裏側部分に、一部判読不能ながら、造像年と願主の名前が書かれ、それが見えるように本体から取り外して展示されている。年は1124年で、平安在銘彫刻としては古い方に属し、貴重な例といえる。

願主の中には額田、高橋といった在地豪族の中に混ざって「語」という姓の人物が見え、これは「語部氏」すなわち古きことを伝える職能の氏である。延喜式の中に、大嘗祭(天皇が秋にとり行う収穫祭である新嘗祭のうち、天皇即位後に特に行う一世一代のもの)の際に諸国から語部氏が招集されて古詞を奏させたとある。これは次第に形式的なものになっていったのだろうが、14世紀まで続いていたことが分かっている。8世紀の古事記成立に活躍した稗田阿礼の末裔のような人が、ずっとあとの仏像の銘文中に登場してくるというのは、不思議なことに思える。

 

その他、一見未完成のような荒彫りの不動明王の立像が目を引く。仏が化現する様子を彫刻化したものであろうか。いわゆる鉈彫りと異なって不規則な彫り目が全身に残る像であるが、荒々しさよりも親しみが感じられる。鼻が折れているのが惜しい。

 

 

その他

木彫仏の中に2躰、鉄仏が安置されている。

1躰は鉄板に浮き彫りしてつくられた不動明王立像で、高さ80センチ弱。顔かたちや衣紋、火炎など形式化が進むが、レリーフ状の珍しい作品といえる。背面に江戸後期、1801年の年と作者、願主名が書かれている。

もう1躰もやはり不動明王立像で、足先を失っており、像高は現状で50センチ余りである。少し首を傾げ、両腕を左右に張り出して、なかなかの存在感を示す。近世の史料によれば、高賀山の窟に「立像金銅仏 丈二尺一寸五分が安置されている」、また「参拝者は不動尊像を外へ抱き出して拝み、また中へと納める」とあり、それがこの像ではないかと考えられる。

 

 

さらに知りたい時は…

「美濃の仏像」(『国華』1438)、清水眞澄、2015年8月

『飛騨・美濃の信仰と造形』(展覧会図録)、岐阜県博物館、2012年

『岐阜・高賀山の信仰と造形』、成城大学仏像調査団、1999年

『虚空蔵菩薩信仰の研究』、佐野賢治、吉川弘文館、1996年

『高賀山の信仰 : 鬼と行者と円空と』(展覧会図録)、岐阜県博物館、1982年

『岐阜県史 通史編 古代』、岐阜県、1971年

「高賀山信仰の美術」(『仏教芸術』81)、佐和隆研、1971年8月

「美濃の白山・高賀山の虚空蔵菩薩像」(『MUSEUM』229)、倉田文作、1970年4月

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代・造像銘記篇2 』、中央公論美術出版、1967年    

「平安在銘彫刻資料3」(『MUSEUM』156)、佐藤昭夫、1964年3月

 

 

仏像探訪記/岐阜県