横山不動尊

平安時代の大きなお不動さま

住所
登米市津山町横山字本町3


訪問日 
2025年8月24日


この仏像の姿は(外部リンク)
横山不動尊



拝観までの道
最寄駅は気仙沼線の陸前横山駅。
本来気仙沼駅までの気仙沼線だが、東日本大震災の影響で終着駅が柳津駅となり、その先は線路をバス専用道路に転用して気仙沼BRTとして運行している。陸前横山駅は柳津駅からBRTで1駅め(時間帯によってはさらに手前の前谷地駅からBRTに乗車)。下車後、西へ徒歩約10分。
拝観は大徳寺に事前連絡必要。


拝観料
志納


お寺や仏像のいわれなど
横山不動尊は丈六の不動明王像をまつる不動堂で、すぐ西にある曹洞宗大徳寺が管理している。
伝えられるところによれば、この不動明王像は渡来仏で、百済から、あるいははるばる古代インドのマガダ国から船でこの東北の地に着き、さらに自ら山を飛び越えて現在の横山不動尊の裏手の山の上に鎮まったといい、その年代は平安時代後・末期の保元年間という。実際に横山不動尊はかつては山上にあったそうだ(その場所は現在不動尊奥の院と呼ばれているという)。
本像はカツラの寄木造でつくられており、もちろん外国からの渡来仏ではない。一見すると地方色が強い像のようでもあるが、よく見ると全体のバランスもよく、手までもしっかりと内ぐりされて軽量化が図られているなど、手慣れた仏師による作と思われる。さらに丈六というスケールを考えると、奥州藤原氏と何らかの関係のもとで作られたとの推測ができそうである。そうすると、伝承にある保元年間というのもまったくの創作というのでなく、何らかの事実が反映された年代のようにも思えてくる(保元は1156~1159年で、奥州藤原氏2代基衡から3代目の秀衡への代替わりの時期)。


創建時の宗派、寺名などは明らかでないが、16世紀初頭に曹洞宗寺院として再興されて、これが今の大徳寺である。16世紀末に当地を治めていた葛西氏が不動堂を山麓の現在の場所に移し、17世紀後半に仙台藩伊達氏の命によりお堂の立て直しと像の修復が行われた。そのお堂は20世紀前半の火災によって焼失したが、仏像は人々がかついで火災を逃れたという。現在のお堂はその後の再建である。
1997年に重要文化財指定。そのときすでに表面の剥落、地付の不安定さ、材の虫損害や朽損、剥ぎ目の緩みなどがあらわれてきており、修復の時期を探っていたらしい。東日本大震災の直前に修復に向けての予備的な調査が行われたが、その直後の震災で傷みがさらに進んだこともあり、京都に運ばれて修復が行われた。


拝観の環境
堂内、近くより拝観させていただける。


仏像の印象
像高280センチ弱の坐像。
写真で見ると地方的な素朴さが感じられ、憤怒のさまはやや滑稽にも思えたりもするが、実際にお堂の中で見上げるとまったく印象が異なる。迫力があって品もあるすばらしい像であるとわかる。

眼は力強く見開き、額は狭めにして、眉をキリキリとあげ、両眼の間にはコブのような盛り上がりを見せる。このあたりの誇張の具合が写真で見ると不自然さが感じられるところではある。鼻は短かめで小鼻は大きい。上の歯で下くちびるを噛む。口の左右に縦に線が刻まれる。

顔の上半分と下半分が迫力を競い合っているかのようであるが、全体として見ると顔立ちには偏ったところがなく、むしろよく整っているように感じられる。髪に巻かれたヘ可愛らしいアバンドもアクセントになっている。
羂索と剣を持つ手、腕の様子や座り姿も自然である。
衣の線は浅く刻まれる。平安時代後期、末期の時代を反映した力強さを抑えたものとも思うが、条帛にしても裙にしても薄い衣の質感がよく出ていて、衣の浅い波もそれに対応したものとも思える。肩、胸前での条帛の巻き方や、腰から下がる紐が左右で脚部にかかって下がる様子も工夫が見られ、面白い。

近世、近代には遷座や火災を逃れての避難もあり、近年の修理前には傷みが進んでいたものの、その割には保存状態はよい。多くの像で後補に変わっている指先も本像は当初のものである。さらに、持物の剣についても当初のものである可能性が指摘されている。


その他
左右に安置されている二童子は20世紀前半に補われたものである。


さらに知りたい時は…
『みほとけの推しほとけ』、みほとけ、笠間書院、2024年
『大徳寺木造不動明王坐像修理報告書』、不動明王像平成の大修復事業実行委員会、2014年
「新指定の文化財」(『月刊文化財』405)、文化庁文化財保護部、1997年6月


仏像探訪記/宮城県