与楽寺(広瀬区)の2体の十一面観音像
鞘仏と納入仏が並んで収蔵庫に安置

住所
広陵町広瀬797
訪問日
2025年1月13日
この仏像の姿は(外部リンク)
広陵町 観光・寺院
拝観までの道
最寄駅は近鉄田原本線の但馬駅で、南南西に徒歩20分から25分くらい。または、数キロ東の田原本駅にはタクシーが常駐している。
収蔵庫に安置されている十一面観音像を拝観するには、希望日の2週間前までに広瀬町教育委員会の生涯学習文化財課を通じて依頼する。
*広陵町内寺院(百済寺、与楽寺)の見学申込みについて
申込書をプリントアウトして必要事項を記入し、FAXにて申し込む。
筆者の場合、申し込んで数日後に電話で希望通りに見学できる旨、担当の方から連絡があり、当日もスムーズに拝観することができた。
拝観料
拝観料等の設定は特になかった(広陵町の担当の方に拝観料についてお聞きしたところ、「お志があれば賽銭箱に」とのことだった)
お寺や仏像のいわれなど
真言宗寺院。
「ようらくじ」と読む。かつて「瓔珞寺」と書いていたこともあるらしい。
昔は大きな寺院で、周囲に「仁王前」や「大般若」などの地名が残り、寺の南側に広がる広瀬町東部農村公園の池も、もとはこの寺院の梵字をかたどった池だったという。
中世には興福寺の末寺であった。
檀家はなく、住職も他寺院と兼務で、本堂と収蔵庫のみの小寺院である。弘法大師の縁日に行われる法要も、お寺のある広瀬地区の方々が中心となって実施しているとのこと。
収蔵庫に移されている像も地区の方によって管理が行われ、像の所蔵も「広瀬区」となっている。
このお寺の十一面観音像が1990年代に修理された際に、納入仏があることがわかった。古代の檀像様の十一面観音像で、錦の布に包まれていた。納入仏を込めていた十一面観音像は、檀像様の仏像を納めるための「鞘仏」であったわけである。
この発見を受けて、これらの像の保管に万全を期するために収蔵庫がつくられた。
なお、2004年に納入仏(檀像様の十一面観音像)は重要文化財指定され、鞘仏の方は他の納入品とともにその附(つけたり)指定とされた。
拝観の環境
収蔵庫内で近くよりよく拝観させていただける。
納入仏は博物館等でよく見られる独立ケース内に納められている。ケースの上部に照明が備えられ、また収蔵庫自体も明るく、南面しているので外の光も入り、よく見ることができる。しかし、像は小さいので、視力がよくないと細部まで見るのは難しい。できれば、焦点距離の短い一眼鏡のようなものがあるとよい。
鞘仏は厨子に入って安置されている。こちらはガラスケースで隔てられていないが、厨子のために頭上面はよく見えない。
檀像様の十一面観音像の印象
納入されていた十一面観音像(檀像様)は、像高30センチ強の立像。像高約120センチの像の足の部分に入っていたのだから小さな像であるのは当たり前のことだが、改めて対面すると、思っていたよりも小さく感じられた。
材はマユミという木であるらしい。マユミは漢字で「檀」という字を書き、日本、中国、朝鮮の野山にみられる。日本では古くから弓を作るのに用いられたそうで、そのため「真弓」と書かれることもあるという。しかし仏像に使われることは稀で、おそらく本像が唯一の例であると思われる。
そのマユミの木を木芯を含めて丸彫りし、台座まで一木で彫り出している。ただし、像は足首のところで破損しており、現在は足先と台座は新補されている(元の台座は像の横に置かれている)。内ぐりはほどこされていない。
日本製であれば奈良時代の作。あるいは中国・唐時代の作である。日本製という説の方が有力のようだ。
足首のほかにも様々な部分が破損しており、特に手は、左手は肩の下から、右手は手先が失われている。首を少し右に傾け、腰はあまりひねらず、右足膝は若干曲げながら前に出している。写真で見ると、手が失われていることもあって、体勢が崩れている(体が不自然に曲がっている)ようにも感じられるが、実際に見ると、もちろん破損による痛々しさはあるものの、体勢については違和感はない。
この像は、他のどの仏像にも似ない非常に顕著な特色を備えている。いわば唯一無二の像といえる。
まず、まげ(髻)が大きい。、顔と同じくらいの大きさがあり、高さだけでなく、横幅、奥行き共にたっぷりとしている。そして、まげの下に360度にわたって開く装身具を着ける。天冠台の上についているので、宝冠の張り出し部とみなしてよいのだろうが、失礼ながらシャンプーハットのようでもある。それが11方に弧を描く。
この形はどういうことであろうか。11の頭上面をいただくので、宝冠の飾りも11方向に張り出す形としたということか、それは計算して作り出したものであるのか、何かその元になった考え方なり造形があったのかなど、何もわからないのが残念である。
さらに、頭上面の配置もほとんど類例のない珍しいものである。頂上に仏面、真後ろに大笑面を配するのは通例だが、残る9面は3面ずつのセットとなり、それぞれ上に1つその下に2つという三角形のような配置で取り付けられている。これらの頭上面は破損しているものもあるが、全体によく残っていて、耳のつくりなど本面のそれとまったく同様の形に精緻に刻まれ、目を見張る。
顔立ちはやや平面的。目は見開きがあり、鼻口を接近させ、顎はしっかりとつくる。細おもてで、ほおの膨らみは少ない。
なで肩で、胸は豊かに、胴はくびれて2本の陰刻線が刻まれている。その下側の1本はぐるりと胴を一周しており、これも珍しい。
条帛は着けない。
天衣は膝の上でひねりを入れながら横切り、また背面でも体を横切っている。
腰から腿にかけてはひだを刻まず、下肢では波が優美に繰り返される。腰を回る飾りからは正面に1本、背面には2本、飾り紐を垂らす。他にも胸や腕のアクセサリーやまげを束ねるヒモなど細かい飾りが刻まれ、実に入念なつくりである。
ただし、唐から将来されたことが確実な檀像彫刻に見られる執拗ともいうべき精緻さは見られず、それがかえって心惹かれる。
鞘仏について
鞘仏の十一面観音像は、鎌倉時代の作。与楽寺の西観音として信仰されてきた像という。
像高は約120センチの立像。クスノキの寄木造。像の足の方に納入品が納まることを意識したように内ぐりがつくられていることからも、鞘仏として造像されたと考えられる。
目は細く開け、鼻口は接近する。ほおは丸々として、豊かな顔つきで、若々しく、凛々しい印象がある。ただし、顔はかなり傷んでいたそうで、補修がある程度なされているようだ。
左手は水瓶を取り、右手は垂下する。右手は長い。元は錫杖を持っていたそうだが、修理後は持たない姿に改められている。
腰を左にひねり、右足を少し遊ばせて、自然な動きがある。
胸は豊か。腰布をつけ、その結びは素朴である。下肢の衣の線は太い。
その他の納入品について
他の納入品には、造像にあたって結縁した人々の名を連ねた紙(結縁交名)が2紙、十一面観音の印を押した紙(印仏)、その他の文書1通(池の使用料に関する文書か)と銭3枚(唐銭、宋銭)があった。
銭は収蔵庫内の別のケースに保管され、見ることができるが、古文書については見ることはできない(パネルが掲げられている)。
かつてネズミが像内に巣を作っており、古文書はかなり傷みが進んで、読めなくなっているところが多い。
結縁交名に書かれた人々は、僧俗、男女、子ども、物故者まで多岐に渡り、合わせて100人ほどにもなるようである。氏族名と思われる名としては、紀、秦、葛木、藤原、橘、坂上、檜前、大中臣、大原といったところがみえる。また、印仏の裏面にも結縁した人の名前がある。
文書中には1233年を示す年や与楽寺の文字がある。本像が与楽寺に安置するために作られた像であるとわかり貴重である。
与楽寺本堂の弘法大師像について
拝観予定日の前日に与楽寺の兼務住職さんに連絡がつき、本堂の拝観希望をお願いしたところ、収蔵庫を管理する地元の方に伝えてくださったようで、当日は本堂内の拝観もさせていただけた。
与楽寺本堂中央にまつられている弘法大師像は像高80センチ強の坐像で、ヒノキの寄木造、玉眼。
若々しい表情、流れるような衣が魅力的な像である。
像内、後頭部の裏側に墨書銘があり、つくられたのは1373年、願主は実尊と乗円、仏師は行盛とわかる。南北朝時代の貴重な基準作例である。
さらに知りたい時は…
『 日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』5、中央公論美術出版、2007年
『古密教』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2005年
「新指定の文化財」(『月刊文化財』501)、文化庁文化財部、2005年6月
「奈良・与楽寺十一面観音像の鞘仏と胎内仏」(『月刊文化財』488)、鈴木喜博、2004年5月
『与楽寺の十一面観音檀像』、奈良県教育委員会文化財保存課、2003年
『広陵町史 本文編』、広陵町、2001年
『広陵町の仏像』(広陵町文化財調査報告書)、広陵町教育委員会、1992年
『奈良県指定文化財』38(平成8年版)、奈良県教育委員会、1992年
→ 仏像探訪記/奈良県
