興福寺東金堂の文殊、維摩像

  問答する居士と菩薩

住所

奈良市登大路町48

 

 

訪問日

2011年9月18日、 2012年1月9日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

興福寺 寺宝、文化財

 

 

 

拝観までの道

興福寺東金堂は、国宝館と五重塔の間にたつお堂。宝物館である国宝館を除くと、興福寺の中で堂内での拝観がいつも可能なお堂はこの東金堂および近年再建された中金堂だけである。

近鉄奈良駅から徒歩約10分、JR奈良駅からは徒歩約20分。

 

 

拝観料

拝観料300円(国宝館との共通拝観券もあり)。

 

 

お寺や仏像のいわれなど

興福寺東金堂は8世紀前半、聖武天皇によってつくられた。

他の堂と同様に、このお堂も繰り返し火災にあい、その度に復興を繰り返している。

最後の火災は15世紀前半(室町時代)で、お堂はその後に建てられたもの。伝統的な様式で再建され、特に前面の1間を吹き放しとする姿は唐招提寺金堂を思わせる。

堂内の仏像は、創建時の像が失われたために再興された像、再建をきっかけに新たに造立された像、他から移入された像が混じり、造像年代もさまざまである。悪く言えば寄せ集めの感があるが、くりかえし襲った災害を乗り越えて今ここにある群像なのである。

 

 

拝観の環境

お堂の広さに比べて安置仏が多すぎるためか、十二神将像の一部は死角に入ってほとんど見えない像もある。また、像の前に置かれた高い供物台のために本尊脇侍像は下半身が見えないなど、あまりすっきりとはしていないので、残念である。

その中では本尊の左右に安置される文殊菩薩像、維摩居士像(鎌倉時代)は、比較的像容がよくわかる。

 

 

仏像の印象

維摩居士は釈迦の在家の弟子である。

維摩が病を患っていると聞き、釈迦がそばに仕える弟子たちに見舞いに行けと言うが、誰一人腰をあげない。その理由は、誰もが維摩との問答に打ち負かされた経験があるためという。ようやく文殊菩薩が釈迦の意向を受けて見舞いに行くことに決まり、その問答を傍聴しようと大勢が維摩の居宅を訪れる。維摩の宅は方丈というから小さな四角い住居であったが、不思議なことに全員が入って余りある大きさになった。このように維摩居士は神通力を巧みに使い、かつ問答にもすぐれた人物、すなわち在家にあっても最高の智慧、悟りに達することができることの象徴として描かれる。

これは『維摩経』という経典で説かれる話で、法隆寺五重塔塑像群の中にもこの問答の場面をあらわした群像がある。興福寺の維摩、文殊の像は、法隆寺五重塔内の像と異なり、向かい合ったり、多くの聴衆に囲まれたりはしていないが、この経典を典拠に対の像としてつくられたもの。『維摩経』の場面から問答する2像だけをセットで取り出したものとして、この東金堂の像は今日残る唯一の彫刻である。

 

文殊菩薩像は、本尊に向って右側、すぐ脇に安置されている。像高は1メートル弱の坐像。ヒノキの寄木造。若々しい面相、衣や鎧の表現も極めて自然で、この像の作者の卓越した技能が感じれれる。左足を前に外して安座する。

目鼻立ちは整い、玉眼と美しく弧を描く眉がすずやか。

頭上に四角の箱をいただいているのが面白い。これは梵篋(ぼんきょう)といって、お経の入った箱のこと。光背、台座をはじめ、この像が曲線と曲面を強調してつくられている中で、この箱が強いアクセントとなっている。

服は、鎧の上に袈裟を着け、そして右手には華やかなくくり袖が見え、変化に富んだ面白さがある。

 

本尊をはさんで向って左側の維摩居士像はそのまったく逆で、老人の相、何層か重ねた地味な衣をつけ、頭巾をかぶる。台座、後屏をはじめ、衣の線も曲線ではあるが、かなり真っすぐに近い線で表現され、全体に直線が強調される。その中で、頭巾をかぶった頭部とその後の後屏のトップのラインが曲線であるのがきいている。

像高は約90センチ。文殊菩薩と同じくヒノキの寄木造、玉眼。

ただし、よく見ていると、老人の相に下からは、同時に若々しい感じも見て取れる。鎌倉前期彫刻の清新な雰囲気が自然に顔をのぞかせている印象である。

なお、両像とも手の表現も秀逸で、それによっていかにも両者が問答をしている姿であることが伝わってくる。

 

 

仏師定慶について

維摩居士像の像内には長文の銘がある。それによると、1180年の火災のあと復興はかなり難行したこと、本像は1196年に仏師法師定慶の作、彩色は法橋幸円が担当し、それぞれ約50日ずつかけて像を完成させたことが書かれている。ただし、この銘は20世紀初頭の修理の際に発見されたもので、記録が残るのみ。本体が台座と分離しないようになっているため、その後見た者はいない。台座裏には15世紀に彩色の修理を行ったことが記されている。

文殊菩薩像からは銘文は見つかっていないが、維摩像とのつりあいのとれた出来映えから、同じ作者または同系統のすぐれた仏師の作と思われる。

 

定慶という仏師だが、鎌倉時代に複数名いたことが知られている。これは珍しいことである。よほどよい名前と当時は認識されていたのであろう。また、康慶、運慶、快慶など誰もが知る、多くの直弟子をかかえるような仏師ではなかったために、同名を名乗っても差し支えないと考えられたのかもしれない。

維摩像に銘記のある定慶は、鎌倉時代の「定慶たち」の中の一番手である。銘に「法師」とあるので、法橋、法眼のような位にはなっていない仏師、すなわち慶派の傍流仏師と考えられるが、師弟関係は不明。他の作品としては、春日大社伝来の舞楽面「散手」、興福寺国宝館安置の梵天像、東京・根津美術館蔵の帝釈天像がある。

 

 

法会との関係

かつて興福寺では「維摩会」という大きな法会が行われていた。

興福寺創建以来という伝統をもち、宮中で執り行なわれた「御斎会」、薬師寺で行われた「最勝会」とともに、仏教界最大の行事とされていた。講堂でおこなわれるのが常であったという(近代の廃仏の時期まで存続)。

東金堂の維摩、文殊像は再興像であり、それ以前、前身となる像があったことが知られるが、その造立の事情は明らかでない。あるいは興福寺伝統の維摩会との関係があったのかもしれないが、不詳である。

現在では、文殊菩薩像を主尊とする「文殊会」という法会が、毎年4月25日、東金堂にて行われている。

 

 

堂内のその他の仏像

本尊は室町時代に再興された薬師如来坐像で、この時代としては記念碑的ともいうべき銅造の丈六仏であるが、いかんせん平安、鎌倉期の仏像に比べて鈍重な感じは否めない。

 

一番外側に立つ四天王像は平安前期時代を代表する四天王像のひとつで、一木造。太めの体躯が重たげな印象がある。

 

文殊像と維摩像の脇には十二神将像(鎌倉時代)が安置される。1躰ごと体勢に変化がつけられ、すぐれた作ゆきの像である。

 

 

さらに知りたい時は…

『仏像歳時記』、關信子、東京堂出版、2013年

『興福寺 美術史研究のあゆみ』、大橋一章・片岡直樹編、里文出版、2011年

『維摩経』、植木雅俊 訳、岩波書店、2011年

『興福寺国宝展』(展覧会図録)、東京藝術大学大学美術館ほか、2004年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』1、中央公論美術出版、2003年

『奈良六大寺大観(補訂版)』8、岩波書店、2000年

『週刊朝日百科 日本の国宝』056、朝日新聞社、1998年3月

『文殊菩薩像』(『日本の美術』314)、金子啓明、至文堂、1992年7月

 

 

仏像探訪記/奈良市