秋篠寺の伎芸天像

  奈良時代の頭部、鎌倉時代の身体

住所

奈良市秋篠町757

 

 

訪問日 

2013年1月27日、 2017年1月2日

 

 

 

拝観までの道

秋篠寺(あきしのでら)は美しい境内の緑、品のよい鎌倉時代の本堂、そして美しいみ仏にお会いできるお寺として知られる。

近鉄の大和西大寺駅の西北にあり、行き方としては大和西大寺駅より徒歩、バス、タクシー、レンタサイクル(南口にある)、または大和西大寺駅から京都側にひとつ行った平城駅から徒歩のいずれかとなる。

 

筆者のお勧めは、大和西大寺駅から徒歩で行くルート。西大寺境内の北東の角に秋篠寺を示す案内矢印が出ているので、それに従ってはじめ西へ、途中から北へと進むと、20分くらいで南門の前に至る(この道は「歴史の道」と名付けられている)。

南門の内は緑の木々のトンネルで、まるで別世界である。

100メートルほど北に本堂があり、入堂して拝観できる。

 

 

拝観料

500円

 

 

お寺や仏像のいわれなど

秋篠寺は奈良時代末期の創建。光仁天皇、桓武天皇の御願により、平城京の西北隅につくられた。開基は善珠(法相六祖のひとりに数えられる高僧)という。平安前期にかけて若干記録に登場し、また寺内には古代の礎石も残る。しかしそれ以外に創建期から平安時代にかけての秋篠寺の歴史は、あまりよくわかっていない。

 

平安時代後期の1135年に、兵火によってすべての堂宇が失われてしまったといい、現在の本堂は、当初講堂があった位置に鎌倉時代前期に建てられたものである。また、そのころ所有地をめぐって、南に隣接する西大寺と争ったことが記録に見える。

 

中世から近世の前半までは、いくつもの子院を持つなかなか栄えたお寺であったようだが、その後しだいに衰退して、近代には無住となった時期もあった。

宗派は法相宗と真言宗の兼学で、近代に一時浄土宗寺院の末寺となったが、現在は単立。

 

 

拝観の環境

本堂は南面する。堂内にライトはあるが、やや暗い。外からの日の光があると比較的仏像の姿がよくわかるので、晴天の日中に行くのがよい。

 

 

伎芸天像の印象

須弥壇上に並ぶ仏像の中で、伎芸天(ぎげいてん)像は向って左端に立っている。像高は約2メートル。

本来の尊名は不明であるので、伝・伎芸天像と記述するべきなのかもしれない。伎芸天という名称はおそらく近代に仮につけられたものと思われる。

 

この像は、頭部は奈良時代末ごろ、体部は鎌倉時代後期ごろの作である。

伝来は明らかでないが、あるいは秋篠寺創建期の仏像で、1135年の火災の際にかろうじて頭部のみ救い出されたといった経緯が考えられる。

材質は、頭部は奈良時代に盛んに行われた漆と布を用いた脱乾漆(だつかんしつ)という技法によるのに対し、体部は木彫である。

その姿は、首を少し傾け、腰には豊かな肉付けをほどこした上でひねりを加え、下半身を長くとってプロポーション豊かに仕上げる。それは失われた当初の体もそうであったのか、それとももはや失われた体がどのようなものであったか施主も仏師も知らない中で行われた補修であったのであろうか。

いずれにしても、この仏像の美しい立ち姿は、時代も技法も異なる頭部にみごとに体をついだ凄腕の鎌倉仏師の力によるものということができる。

 

壇の向って右端には伝・帝釈天像が立つ。像高2メートル強で、頭部が奈良時代の乾漆造、体が鎌倉時代の木彫であることは、伎芸天像と同じである。

実は秋篠寺にはこのほかに2躰、同様の像(伝梵天像、伝救脱菩薩像)が伝わっている(奈良国立博物館寄託)。伝救脱菩薩像内に体部の作者が院派仏師の院湛であると書かれている。他の3像には作者名は書かれないが、おそらく同じ院派仏師によって補作されたのであろう。

なお、同じ奈良後期創建の西大寺の金堂には、数十躰もの仏像(ただし塑像が多い)が安置されていたことが当時の資財帳から知られるが、草創期の秋篠寺にも大規模な群像の彫刻がまつられていたのかもしれない。

 

 

本堂のその他の仏像

秋篠寺本堂は、須弥壇の前を広くとり、床は土間とする。装飾を排した簡素な美を感じる。もっとも、つくられた当初は唐招提寺金堂や興福寺東金堂のように正面の1間は吹放しであったと考えられ、何度かの改造によって現在の姿となった。とはいっても、かなりよく鎌倉初期の姿をとどめているといえる。

本尊は薬師三尊像。かつては薬師堂とも呼ばれていたらしい。

 

薬師三尊像中尊は像高約140センチと、半丈六の坐像。中世につくられた模古的な像である。

平安前期の仏像のような量感を出し、衣に渦を巻くような文を配したりもしているが、一木造でなく、独特の木寄せでつくられている。ややくせのある個性的な雰囲気の仏像である。

脇侍の日光、月光菩薩は、像高約160センチの立像。一木造で平安時代の作。もとは梵天、帝釈天像としてつくられたのかもしれない。

その左右に6躰ずつ置かれた十二神将像は、像高70センチ前後。そのうちの1躰から南北朝時代の1358年の年の入った紙片が見つかっていて、この頃の作と考えられている。形式化が進み、仏像というより人形に近いような像であるが、頬に手をあて、ひょうきんな姿をした未神将像など、室生寺金堂の十二神将像を思わせる。

 

向って左奥には、五大力菩薩像が安置されている。

5躰の忿怒形の像で、髪を逆立て、上半身は条帛、下半身は裙をまとい、2臂で、片足を上げる(中尊は坐像)。

中尊は像高約100センチ、その他の像は120センチ内外で、顔つきは劇画調であり、室町時代ごろの像と思われる。中で向って左から2番めの像は顔つき、体勢に落ち着きがあり、平安時代までさかのぼれる可能性がある。

江戸時代には手紙の封締めに「五大力」と書くと、その加護によって無事届くという信仰があったそうで、身近な仏さまだったようだが、古代、中世ではこの像がつくられた記録は少なく、彫刻作品の遺例としてはこの秋篠寺の像と茨城県桜川市の五大力堂の像が知られる程度であり、たいへん珍しい。

 

 

その他

本堂西側の太元堂には、大元帥(だいげんすい)明王像がまつられている。鎌倉時代の後期から末期ごろの作とされる。恐ろしい形相の像である。

秘仏で、毎年6月6日のみ開扉されている。

 

このほか、秋篠寺の仏像には京都や東京の国立博物館に寄託されているものがある。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』14、中央公論美術出版、2018年

『日本美術全集』3、小学館、2013年

『法華寺と佐保佐紀の寺』(『日本の古寺美術』17)、橋本聖圓・山岸常人、保育社、1987年

『大和古寺大観』5、岩波書店、1978年

 

 

仏像探訪記/奈良市