正暦寺の孔雀明王像

  珍しい孔雀明王の彫刻が拝観できる

住所

奈良市菩提山町157

 

 

訪問日 

2012年5月8日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

正暦寺の文化財

 

 

 

拝観までの道

正暦寺(しょうりゃくじ)は奈良市の南部、菩提山(ぼだいせん)町というところにある。ここは春日奥山の南方にあたり、奈良市内とはいってもかなり山深いおもむきがあるところである。

アジア太平洋戦争末期、東大寺法華堂諸仏を疎開させねばならないという話になり、その疎開先として選ばれたのが円成寺とここ正暦寺であった。一部の仏像を運んだところで敗戦になったそうだが。それくらい市街地からは離れた場所にある。

 

最寄り駅は桜井線の帯解(おびとけ)であるが、下車後1時間以上歩かなければならない。最寄りバス停はJRまたは近鉄の奈良駅から米谷町行き奈良交通バスの「柳茶屋」。下車後北東へ、上り坂を30分くらい歩く。バス本数も少なく、かなり行きにくいお寺といえる。

私は、行きは帯解駅近くにあるタクシー会社のタクシーを使い、帰りはバスの時間を見越してバス停まで歩いた。

 

正暦寺はまた紅葉の名所として著名で、その季節は正暦寺までの直通バスが出る。しかし、道は細く、たいへんな混雑だという。

 

奈良交通バス

 

 

拝観料

500円(春季、秋季、冬至祭の特別拝観時は800円)

 

 

お寺のいわれなど

10世紀に勅願寺として創建されたと伝える。

1180年の南都炎上に際して正暦寺も焼けたという。興福寺復興のために尽力した摂関家出身の信円が、晩年正暦寺を隠遁先に選び(そのため「菩提山僧正」「菩提山御房」と呼ばれる)、当寺の再興にあたったので、以後、法相宗の学問寺として隆盛であったという。ある時期には、法然の弟子が念仏の道場を設けたり、酒の醸造でも知られた。

現在は真言宗。

 

かつては多数の坊があったというが、そのうち福寿院が唯一今日まで続いている。

 

 

仏像拝観について

正暦寺には、孔雀明王像、薬師如来像、その他瑠璃殿(収蔵庫)安置の諸仏が伝来する。

 

このうち、孔雀明王像は、拝観受付の場所でもある福寿院の客殿上段におまつりされ、基本的に毎日拝観が可能である(12月30日、31日はお休み)。

 

このお寺の本尊である薬師如来像は秘仏で、春と秋の時期に限り拝観できる。

春は4月中旬からゴールデンウィークの期間にかけて(4月18日から5月8日)収蔵庫で公開される(ほかに冬至祭の12月22日も)。

秋は、紅葉の時期、すなわち11月上旬から下旬の約1ヶ月間(12月上旬まで公開される年もある)、厨子を本堂に移して開扉される。

 

収蔵庫には、多くの仏像が安置されているが、収蔵庫が開かれる時期は4月から5月にかけての時期と冬至祭の日で、秋には開扉されないので注意(紅葉のシーズンは拝観客が多く、収蔵庫の公開まで手がまわらないためらしい)。

 

 

孔雀明王像の印象

仏像というものは大変なバリエーションをもつものであり、それだけに奥が深く、興味は尽きない。例えば慈悲の相をあらわす観音だが、馬頭観音はなぜか忿怒の形相である。一方、怒りをあらわにする明王だが、なぜか孔雀明王だけは菩薩の表情であらわされる。

孔雀という鳥は古代から特別な力をもつと考えられていたらしい。毒蛇をも食すとされ、それが転じて罪業を消滅させる力のあるものとして神格化された。

日本には奈良時代に経典が請来され、西大寺に複数の孔雀明王の彫像が安置されたと記録にある。また、空海が孔雀経法を修し、真言密教で重視される尊像となった。羽根を左右に大きく広げた孔雀に乗った華やかな孔雀明王像の仏画が院政期には数多くつくられたようだ。また、11〜12世紀には3尺の孔雀明王の彫像がいくつもつくられたことが記録に見える。

しかし、孔雀明王の彫刻の遺品は極めて乏しく、平安時代までさかのぼるものはない。

 

孔雀明王の彫刻作品としては、鎌倉時代初期の快慶作の像(金剛峰寺蔵)が最も古く、名像として知られる。正暦寺の孔雀明王像は、それに次ぐ像ということができる。

像高は50センチ弱と小さい。しかし、坐像で45〜50センチといえば、立像に直すと3尺となり、院政期に多くつくられたという3尺孔雀明王像の伝統を引く(金剛峰寺像はもっと大きく、像高約80センチ)。

1面4臂で孔雀の背の上の蓮華座に座す。4本の手には、孔雀の羽、吉祥果、蓮華、法輪をもつ。また、宝冠や首飾りを華やかにつける。

玉眼を入れ、きりりと引き締まった鎌倉時代の仏像であるが、古様な一木造(内ぐりをほどこす)でつくられている。細い孔雀の2本の足で支えているが、この足は鉄製とのこと。

孔雀の羽根をあらわした光背や冠、持物などは後補。

 

目鼻が大きく、特につり上がり気味の目がくっきりとした印象を与えている。上半身は高く、脚部はやや小さめである。4本の腕はあまりすらりとは伸びていかない。孔雀に乗った姿として、安定感を感じさせる像である。

安置場所は明るいが、やや距離があり、一眼鏡のようなものがあるとよい。

 

 

そのほかの仏像について

本尊の薬師如来像は、比較的珍しい倚像である。古代の金銅仏らしい童顔の小像で、右肩をあらわにする。像高は約30センチ。

私が訪れた春の公開期間には、収蔵庫の奥の壁面中央に置かれた厨子の中に安置されていた。拝観位置から像までの距離がややあり、また厨子中にあるため光が届きにくく、また表面がほぼまっくろのために、残念ながら細部まではよくわからない。

 

その左右に立つ日光、月光菩薩立像(像高160センチ余り)は、寺に伝わる記録によると、近代初期の廃仏の時期に大御輪寺から移されてきた像という。この頃は正暦寺も大変な時期であったのが、さらに廃寺より仏像を受け入れて保管したというこの寺のありようには敬意を表しないわけにはいかない。

両像は、腕を失って痛々しいが、穏やかな顔立ち、浅いがよく整った衣文、上背のある落ち着いた立ち姿は、古典的な美しさがある。

旧大御輪寺の仏像としては、聖林寺の十一面観音像、法隆寺の地蔵菩薩像のような力強さはないものの、雰囲気のある平安仏と思う。

ただし、他の仏像が前に置かれていたりして、あまりよく見ることができない。

 

このほかには1527年に実清(東大寺良学房)によってつくられた地蔵菩薩立像(像高約70センチ)など。実清は、1538年再興の大和長谷寺本尊の作者で、「真言随一、近来の名匠」と讃えられた。

 

 

さらに知りたい時は…

『孔雀明王像』(『日本の美術』508)、増記隆介、至文堂、2008年9月

『宿院仏師』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2005年

『正暦寺一千年の歴史』、正暦寺、1992年

「奈良・正暦寺蔵 大御輪寺(神宮寺)仏像・和幡について」(『大美和』82)、池田末則、1992年1月

『奈良県指定文化財』第4集、奈良県教育委員会、1959年

 

 

仏像探訪記/奈良市