唐招提寺金堂・講堂の諸像

  金堂は10年の歳月をかけ修復、2009年に再び公開

住所

奈良市五条町13-46

 

 

訪問日 

2010年1月16日、 2015年8月24日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

唐招提寺ホームページ・伽藍と名宝

 

 

 

拝観までの道

近鉄橿原線の西ノ京駅で下車、東側に出て、線路と平行している道を北へ5〜10分進むと、突き当たりが唐招提寺である。右斜め前に南大門が見える。

入って正面が金堂、その背後に講堂がたっている。

 

 

拝観料

1,000円

 

 

お寺のいわれなど

幾多の苦難をこえて来日にした唐僧鑑真によって759年に創建された寺、唐招提寺。

その寺地は天武天皇皇子・新田部(にいたべ)親王の旧邸宅という。

現在こそ唐招提寺や薬師寺のある地域は「西の京」と呼ばれ、奈良公園を観光の中心とする視点からは奈良のはずれのように感じるが、もとは平城宮朱雀門の南西1キロ半と、平城京の中央に位置する寺院であった。

 

はじめ招提寺、または唐律招提寺とも呼ばれた。この「招提」とは「四方の人」、「各地から集まって来た僧の住むところ」の意味である。

一般にお寺でもっとも重要な建物は金堂(本堂)であるが、唐招提寺では講堂がまず設けられたと考えられている。四方から僧が集い、講堂で鑑真の教えを学ぶところ、それが本来の唐招提寺の姿であったと思われる。

 

金堂は、鑑真の死後、弟子の如宝によってつくられ(それ以前に現金堂の前身となる小規模な金堂が建てられていたという説もある)、そののち五重塔が境内東に建立されて伽藍が整った。この塔は残念ながら江戸時代に落雷によって焼失してしまったが、金堂と講堂がそろって1度の火事にもあわずに今日へと伝わったのは、奇跡的というべきである。

 

平安時代の唐招提寺の様子はあまりわかっていないが、おそらく次第に衰退に向ったのであろう。

鎌倉時代に入り、鑑真がたずさえてきた舍利(しゃり、釈迦の遺骨の一部と信じられている粒)への信仰が高まり、また戒律の復興が盛んに唱えられて、唐招提寺復興の機運が高まった。晩年この寺に住んだ覚盛(かくじょう)上人は、唐招提寺中興の祖、鑑真の再来などと呼ばれた。

その後近世や近代の廃仏によって多くの堂宇が失われはしたが、鑑真の伝えた律宗の総本山として、唐招提寺は奈良の寺院の中でも特段の存在感を放っている。

 

 

金堂の諸尊

金堂内には、中央に盧舍那仏坐像、その左右に千手観音立像と薬師如来立像が、まわりには梵天・帝釈天像、四天王像が立ち並ぶ。いずれも奈良時代後期から平安初期にかけての像で、茫洋とした大きさを感じさせる。

 

盧舍那仏を中心とする三尊は、いずれも乾漆造という、当時中国で流行した作り方で制作されている。だが盧舍那仏は脱活乾漆(漆と布でつくり、中は中空)、薬師と千手は木心乾漆(木を中心にして漆と木の粉で成形する)と異なった方法で制作されている。同じ木心乾漆造でも千手像は乾漆の層が厚く、その層を固定させるために多くの釘が打たれているのに対し、薬師像では乾漆層が薄く、ほぼ一木造の像に近い。釘もほとんど使われていないという。梵釈・四天王は一木造の像で(部分的に乾漆も使われているが)、このように諸像は技法の点で一様ではない。

おそらく薬師如来像が金堂の仏像の中で一番最後につくられたと考えられている。左のてのひらから平安初期の796年初鋳の貨幣である隆平永宝が見つかっていることから、その頃の作と考えられている。

 

盧舍那仏、薬師、千手観音を三尊としてまつる形式は、ほかには例がなく、教義上の根拠も見い出せないため、謎とされてきた。

かつて唱えられた説で、この三尊で東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺を象徴させているというものがあったが、この説は妥当なのではないかと、近年改めて言われるようになった。

鑑真の来日によって、戒律を授け正式に僧になるという仕組みが整えられ、そのための戒壇が東大寺、さらには東国の下野薬師寺と九州の観世音寺にも設けられた(天下の三戒壇)。これはすべて鑑真からはじまったことであるとして、鑑真の寺である唐招提寺に東大寺大仏と同じ尊格である盧舍那仏、下野薬師寺と筑紫観世音寺の寺名にちなんで薬師仏と千手観音をおいたのではないかというのがこの説である。

 

拝観はお堂の外から。お堂の中は外の光が入り、後列になる広目天像と多聞天像はともかくも、その他の像はよく拝観できるが、鳩よけ(?)に張られた網越しとなる。

 

 

金堂の解体修理

金堂は鎌倉時代に2度、江戸時代中期、近代と、合わせて4度の大きな修理を受けている。江戸期の修理によって屋根は高くなり、創建時に比べて勾配が強くなった。

最後の修理から100年を経て柱の傾きが大きくなり、2000年から2009年にかけて完全な解体修理、すなわちお寺の歴史上最も徹底した修理が行われた。仏像は外に出すことになったが、像高5メートルを優に越す千手観音像は脇手を外さないと動かせず、それではということで、仏像も修復が行われることとなった。これによって、中尊の盧舍那仏像はその表面、白く変化した後補部分が取り除かれるなどして、かなり引き締まった感じになった。

 

今回の金堂の解体修理に伴って、木材の伐採年代の調査が行われた。近年よく耳にする年輪年代法という科学的調査である。伐採年がはっきりとわかったのは地垂木という部材3点で、781年と判明した。これはあくまでその木材の伐採年であるが、少なくとも堂の建立年代はこれ以前ということはないということは判明したわけである。一般的に木材を伐採してから長期間使用せずに置いておくということは考えにくいので、781年からそれほど年を隔てずに造られたと推定できる。

また、盧舍那仏、薬師像、千手像の三尊は、作風・技法は異なり、造立の年代差はあると思われるが、調査の結果、金堂須弥壇に安置されたのは同時であった可能性が高いとされた。

 

 

講堂の弥勒仏像

唐招提寺の講堂は、平城宮の東朝集殿という建物が移築、再利用されたもので、唯一の奈良時代の宮廷建築の遺構として貴重である。ただし鎌倉時代に大改修を受けている。

金堂と異なり、お堂の中で拝観できる。

お堂の中央に、弥勒仏像と二天像が安置される。南側から光がよく入って明るく、正面と側面からもよく拝観できる。そのほか堂内には、金堂修理関係資料が展示されていた。

 

弥勒仏坐像は像高3メートル近い丈六の坐像である。ヒノキの寄木造。やや変則的な構造という。

顔を大きくつくり、見開いた目はつりあがりぎみである。眼光するどく、眉も力強く、ひげも目立つやや特徴的な面相だが、これら瞳や眉やひげは後補なので、本来の印象はまた少し違うかもしれない。

顔、体は全体に豊かで、堂々としているというよりは鷹揚な感じがある。

左手はてのひらを下にして膝の上に置いているが、この姿の弥勒如来像は古代以来いくつか例がある。

全身の漆箔はほぼ後世のものに変わる。飛天が舞う華やかな光背と、豪華な台座が付くが、これらはほぼ当初のもの。

 

当初の唐招提寺講堂本尊は弥勒三尊像であったと記録がある。しかし、お堂が失われていないにもかかわらず、いつの頃か、またいかなる経緯か、仏像の交替があった。

現在の講堂本尊は膝の裏側に銘文があり、鎌倉後期の1287年に勧進沙門真乗によって「修補」されたとある。銘文で「修補」や「再興」ということばが出て来た時は要注意で、修理なのか新造であるのか慎重に判断する必要がある。この像は大味な印象がいかにも鎌倉時代後期のものと考えられていて、銘文にある年に造立されたという説が有力である。

この頃、唐招提寺中興の祖・覚盛のあとをついだ証玄によって精力的にお堂や仏像の造立や修理が進められ、まさに唐招提寺中興の時代であった。銘文の1287年は、証玄の最晩年である。

 

 

講堂の二天像

講堂壇上の左右には、持国天、増長天と伝える天部像2躰が安置されている。

像高約130センチ、カヤと思われる針葉樹の一木造で、内ぐりのない古様なつくりである。

邪鬼や台座は後補、また本体も腕などは後補。

 

首がないようにも見え、鎧で引き締められているはずの体はぼってりとして、全体にずんぐりした印象の像である。天部像としてのさっそうとした感じがなく、一見したところやや魅力に欠ける像のように思う。

しかし、細部の彫りはすごい。

拝観位置からやや距離があるので、細かい部分を見るのはなかなか難しいのであるが、よく見ていくと鎧の金具、装飾、紐の結び目、ベルトに巻かれた天衣の表現など、微に入る表現である。紐やベルトが重なりあう様子は、仏像彫刻というより、精緻な工芸作品を見るようである。

中国の石彫仏との関連を述べる説もあるが、いずれにせよ鑑真の来日によってもたらされた新様式の像であるといえるのではないか。

怒りをあらわす顔面は、凹凸で誇張的にあらわすということはしないが、目は飛び出ているような印象的な表現である。

 

持国天は右手を大きく挙げているが、右手は肩から後補であるので、元からこのような姿であったかどうかわからない。むしろ腹部の鎧や帯の右側部分に模様が刻まれていないことから、右手は下げていた可能性が高い。従って腕がどうであったのかは保留するとしても、持国天像は増長天像に比べて姿勢、顔の表情、足の動き等で若干生硬な感じがする。このことから、増長天像は鑑真とともに来日した中国の工人の作、持国天はその指導を受けた日本の工人の作ではないかとする見方もある。

 

 

その他

講堂の北東、御影堂安置の鑑真像は、奈良時代の乾漆像の代表作のひとつ。鑑真が亡くなった旧暦5月6日を新暦で6月6日に置き換え、その前後数日のみ公開される。

 

講堂の東には鼓楼という2階建ての小さな建物があり、さらにその東側には南北に細長い建物がある。もともと僧坊(東室)であったが、その南半分は鎌倉時代に礼堂という建物に改造された。ここには1258年(鎌倉中期)につくられた清凉寺式釈迦如来立像が安置され、毎年10月21日から23日まで公開されている。

 

 

さらに知りたい時は…

『鑑真と唐招提寺の研究』、眞田尊光、吉川弘文館、2021年

「古代寺院の仏像」(『古代寺院』、岩波書店)、藤岡穣、2019年

『唐招提寺 美術史研究のあゆみ』、大橋一章・片岡直樹編著、里文出版、2016年

『日本美術全集』3、小学館、2013年

『唐招提寺の仏たち』、唐招提寺発行、2011年

『芸術新潮 特集・唐招提寺 よみがえる天平の甍』、新潮社、2009年12月

『週刊朝日百科 国宝の美』13、朝日新聞出版、2009年11月

『週刊朝日百科 国宝の美』12、朝日新聞出版、2009年11月

『鑑真』、東野治之、岩波新書、2009年

『仏像』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2006年

『仏教芸術 281 特集・唐招提寺の考古学』、毎日新聞社、2005年7月

『奈良六大寺大観 唐招提寺2(補訂版)』、岩波書店、2001年

『奈良六大寺大観 唐招提寺1(補訂版)』、岩波書店、2000年

『名宝日本の美術7 唐招提寺』、小学館、1980年

 

 

仏像探訪記/奈良市