円成寺相應殿の大日如来像

  運慶前半生のみずみずしい仏像

住所

奈良市忍辱山町1273

 

 

訪問日 

2009年12月6日、 2018年6月9日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

円成寺ホームページ

 

 

 

拝観までの道

円成寺(えんじょうじ)へはJR奈良駅、近鉄奈良駅から柳生方面行きの奈良交通バスで約35分。「忍辱山」(にんにくせん)で下車。ただしバスの本数は日中5本程度と少ない。

 

奈良交通バス

 

バスを下車し、100メートルくらい奈良の方に戻った右手に門がある。

境内に入ると左側が池になっている。平安時代にさかのぼる浄土庭園という。やがて右側に楼門が見えてくるが、ここは通行止めで、その先の階段を上がると拝観入口がある。

 

 

拝観料

400円

 

 

お寺のいわれ

円成寺の創建は奈良時代と伝え、11世紀前半(平安時代中期)に命禅(みょうぜん)上人という方が中興したという(この「中興」が実際の創建か)。この時の本尊は十一面観音であったとそうだが、12世紀前半に南山城の迎接(こうしょう)上人が阿弥陀堂をつくり、阿弥陀仏をまつったという。さらに12世紀半ばに京都の仁和寺から寛遍僧正がこの寺に来て、真言宗の一派忍辱山流を創始した。

 

15世紀半ばに兵火にかかり堂塔のほとんどを失うが、その後復興。楼門および本堂はこの時の再建である。

また、近代初期の神仏分離以後いったんは境内も荒れ果てたが、その後庭園の復元、本堂や仏像の修理、多宝塔の再建など伽藍の整備が進められてきた。

 

 

拝観の環境

拝観入口の裏手に相應殿(そうおうでん)に運慶作の大日如来像が安置されている。

理想的なライティングに加え、像の前方のガラスからは木立を通した外光が柔らかく入ってきて、本当に素晴らしい空間となっている。

前面のほか、左右からもよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

大日如来像は運慶の初期の作として名高い像である。像高約1メートルの坐像、ヒノキの寄木造、玉眼。

かつては本堂内に安置されていたが、多宝塔が再建されるとその本尊として移座され、2017年からは新たな安置場所としてこの相應殿に移った。

 

手を忍者の印のように組む智拳印の像で、金剛界の大日如来像である。

まげは冠の上に出るほど高く結い上げ、顔は張りのあるしっかりとしたつくり。上半身は姿勢よく、しかしあくまでゆったりと座り、下半身は膝を左右によく張り出して、全身できれいな三角形を作り出している。腕は自然に左右に出るとともに手をみぞおちの前、ほんの少し高い位置で組み、豊かな空間を生み出している。背はわずかに反り、上半身からくびれた胴回り、そして充実した下半身へ、その流れは美しい音楽のようである。

足の組み方や衣の襞(ひだ)も自然であり、ため息が出るようだ。

 

 

銘文をめぐって 1

1921年、この像の台座内より墨書銘が発見された。

銘文は6行からなる。1行めの頭にいきなり「運慶承」とあって、この像の作者が運慶であるとわかる。そのあとに1175年11月24日に造りはじめたこと、給料として絹が支払われたこと、そしてこれは仏像本体の分であること(つまり台座や光背は別料金ということか)が書かれる。ここまでが前半である。

後半の3行には、翌年(1176年)10月19日に納めたこと、そして大仏師康慶・実弟子運慶の名、そして花押(かおう、サインのこと)らしきものが記される。

 

不思議な銘である。いきなり仏師名が出てくる、給料がいくらだったかが書かれているというような銘文は珍しいというか不思議である。願主や願文は書かれず、一般的な造像銘とは異なっていることは明らかで、運慶の覚書、または作者としての宣言文のようでもある。平安から鎌倉という時代のかわりめにあって、運慶という個性がまったく新しい地平を開こうとしている、だから他の銘とは違う。そんな気がしてならない。

 

運慶は生年は不詳。死んだのは1223年であると古記録にある。

長男はのちに京都・三十三間堂本尊の千手観音坐像を造ることになる湛慶で、その生年は1173年と分かっている(三十三間堂本尊像の台座内銘文に像完成は1254年、この時湛慶は82歳であったと書かれているので、そこから逆算してわかる)。湛慶の誕生が運慶20代前半と仮定すると、運慶の生年は1150年ごろとなり、円成寺大日如来像をつくった1176年には20代半ばということになる。この像はまさに若き運慶の渾身の作といえよう。

 

 

銘文をめぐって 2

この像は完成まで11ヶ月かかっている。これは、寄木造の等身大像をつくるにしてはやや長過ぎる。

大仏師康慶のあとに実弟子運慶とあるが、実弟子という言葉も一般には用いられない言葉である。

東大寺関連の史料(『東大寺続要録』造仏篇)には康慶と運慶は父子であると記され、この実弟子という言葉と合わせて考えれば、運慶は康慶の実子であり弟子でもあるとの意と推定できる。

大仏師康慶の名前が運慶の名の前に来ているのは、康慶の指導を受けながらの作であることを意味するが、実際にノミをふるったのはあくまで運慶で、みずからの技量を確かめるようにして制作に打ち込んだ結果が11ヶ月という月日になったのではないかとも考えられる。

 

それでもまだ謎は残る。前半3行と後半3行は異なる筆である可能性。最後の花押らしいものは運慶のサインなのかなど。

いずれにしても、この像を見、また銘文の意味を考えるとき、若き運慶の息吹が感じられるように思えて、心が弾む。

 

 

さらに知りたい時は…

「運慶展X線断層(CT)調査報告」(『MUSEUM』696)、浅見龍介・皿井舞・西木政統、2022年2月

『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2017年

「特集 オールアバウト運慶」(『芸術新潮』2017年10月号)

『日本人の坐り方』、矢田部英正、集英社文庫、2011年

『運慶』(特別展図録)、神奈川県立金沢文庫、2011年

『運慶ーその人と芸術』、副島弘道、吉川弘文館、2000年

『週刊朝日百科 日本の国宝 058』、朝日新聞社、1998年4月

『大日如来像』(『日本の美術』374)、山本勉、至文堂、1997年7月

『魅惑の仏像 28 大日如来』、毎日新聞社、1996年

『月刊文化財』358、1993年7月

『院政期の仏像』、京都国立博物館編、岩波書店、1992年

『新薬師寺と白毫寺・円成寺』、(『日本の古寺美術』16)、保育社、1990年

『大和古寺大観4 新薬師寺・白毫寺・円成寺』、岩波書店、1977年

「院政期の造像銘記をめぐる二、三の問題」(『美術研究』295)、水野敬三郎、1975年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇 』4、中央公論美術出版、1968

 

 

仏像探訪記/奈良市