高貴寺の弁才天像
4月26日に開扉
住所
河南町大字平石539
訪問日
2026年4月26日
拝観までの道
高貴寺(こうきじ)は金剛山地の西側、河南町北東部の平石という集落のはずれにある。
交通は、かつては平石までバスが来ていたらしいが、今はやまなみタクシーが河南町のコミュニティとして河南町役場に近いかなんぴあ(町の総合保健福祉センター)を起点として1日4便車を出しており、その終点「平石地区・老人集会所」で下車するのが近い。徒歩約15分。ただし運行は火水木金の週4日。
*カナちゃんバス・やまなみタクシー利用ガイド(時刻表等)
筆者が訪れたのはやまなみタクシーの運行日でなく、近鉄南大阪線上ノ太子駅前より太子町のコミュニティバス(たいしのってこバス)春日・畑線太子カントリー倶楽部前行きに乗車し、「畑薬師山公園前」で下車した。南へ20分ほど歩いて大阪府道、奈良県堂704号(竹内河南線)に入り東へ、平石の集落のはずれまで来たら北へと上っていく。全体で徒歩35分くらい。それほどの距離、時間ではないが、登り坂が多く、息が切れた。
ほかの行き方としては富田林駅から大阪府4市町村コミバス・金剛ふるさとバス河内線で「加納」下車、北東へ徒歩約35分。
講堂本尊の弁才天像は秘仏で、毎年4月26日に法要が行われ、開扉される。
*河内西国霊場会・高貴寺
拝観料
志納
お寺や仏像のいわれなど
この地域は古来から葛城修験の場であり、また東北東の方向に進むと平石峠を経て奈良県に入ることができ、交通の要衝であったらしい。
真言宗の寺院。役行者開創と伝え、初めは香華寺といい、空海がこの地を訪れた時に高貴徳王菩薩が現れ、以後高貴寺と称したという。
江戸時代に慈雲尊者が中興。慈雲は真言僧で、戒律を重視し、サンスクリット語を学び、禅の境地も会得、また儒学、神道にも通じ、書もよくした。
今のご住職は境内の整備、お堂の修繕をはじめ、座禅会を開くなど積極的にお寺を盛り立てていらっしゃる。その甲斐あって、実に清々しい雰囲気がある。
可愛らしい門をくぐり、緑豊かな境内に入ると向かって左から講堂、本堂、開山堂が並んでいる。本堂には五大明王像、開山堂には慈雲尊者の像をまつる。
講堂本尊の弁才天像は、17世紀に書かれたお寺の縁起によれば空海が自ら彫った像という。この縁起には絵がつけられており、それが本像と同様の2臂の弁才天であることから、少なくとも17世紀には本像はこのお寺にあったと知れる。しかし、それ以前の伝来は不詳である。
拝観の環境
4月26日のご法要は13時から1時間弱。秘仏の弁才天像は法要の前後に堂内で拝観可能。
法要では「普賢行願讃」が唱えられ、これは善財童子が悟りを開くために普賢菩薩のもとを訪れた時に説かれた教えだそうだ。
仏像の印象
本尊の弁才天像は講堂の壇の上に厨子に入って安置されている。
像高は約45センチの坐像。ヒノキの寄木造、玉眼。鎌倉時代後期の作で、若々しい中に厳しさを感じさせるすばらしい像である。
弁才天像には2臂、8臂があるが、本像は2臂で琵琶を持つ。
そもそも弁才天像の古像は少なく、2臂で琵琶を持つ姿の像はなお珍しい。他例としては1266年作の鶴岡八幡宮像(鎌倉国宝館寄託)があるが、この像は着装像で、銘文から楽人であった中原氏による造像、すなわち音楽神としての弁才天像への信仰からつくられたものであり、本像の造像意図(後述)とは異なる。
髪は写真で見ると独特の結い上げ方をしている(残念ながら後補の冠のために見えない)。左右に分かれて下がる髪は耳を隠し肩にかかる。
額を広く取り、目はやや釣り上がり気味で、眉もそれに合わせるように先へゆくにつれて上がる。口はしっかりとつぐんで、厳粛さを出す。若々しくも、少々クセのある顔つきで、真っ直ぐに前を向いて座るす姿は威厳がある。
衣は幾重にも重ねて着しているようだ。
左手で琵琶の頸(細くなった部分)を持つ。この琵琶の本体も古いらしい。
衣を胸でV字に合わせ、その下で帯を胸高に締める。左右の袖は膝の後ろに下がり、その端が膝のところに丸く取り付く。
足は右足を前に外して座る。
像内について
像内は丁寧に内ぐられ、像底まで貫通する。像内に銘文があるが、納入品はない。像底を塞いでいたあとがあるそうで、おそらく納入品があったが失われたのだろう。
銘文について
銘文は3箇所に分かれて書かれている。
一番上には「釈迦舎利三粒、金光明最勝王経、妙法蓮華経、仁王般若経」と、弁才天をあらわす梵字が書かれる。舎利及びその後に書かれる3つのお経が失われた納入品であったのではないかと思われる。そして、この3つの経典がいわゆる護国三部経と言われるものであることから、本像が護国神としての性格をもって造立されたことがわかる。
次の部分には願意と願主が書かれていたと思われる。5行にわたって書かれているのだが、読めるのは「弁才天」「西大(?)」「右馬入道」など断片的で、読めるところの方が少ない。実は書かれた上に墨が塗られ、部分的には削られているのである。
最後の部分は僧俗の人々の名が書かれ、おそらくこれは造像の結縁者であろう。こちらも読めないところがあるが、「良金」「兵衛尉正氏」「忍生房」「忍阿弥陀仏」など幸い多くの人名が読み取れる。気になるのは、「正」の字がつく人物が3人もいることである。ほとんどの人物はそれがどのような人であったか不明だが、「良金」「良善」は他の記録から高野山の僧と考えられている。また、「円信房」とあるのは1286年につくられた西大寺本堂安置の文殊菩薩像の像内に願文を納めた西大寺僧尊恵円信房と同一人物かとされる。
これによって、本像が真言宗や西大寺流律宗との関係の中でつくられたと推測することができ、また、西大寺像の1286年と年代が近いとすると、その直前には元寇があったことを踏まえて、護国神としてつくられたのではないかとも考えられる。
銘文の謎をめぐって
銘文の一部がを墨で塗られ、さらに削られるというのは、どういうことであろうか。
下記の松島論文には、2つの推測が述べられている。
1つは、この像がつくられてしばらく経ったところで発生した南北朝の動乱と関係しているのではないかとする推測である。
高貴寺がある河南町はすぐ隣が千早赤阪村、歴史に詳しい人であれば、この地名から南朝方として活躍した楠木氏がすぐに思い浮かぶだろう。この地域では南朝の勢力が強く、しかし最終的には北朝に制圧される。その時になって、銘文中に南朝に連なる人々の名があったとすると、それをはばかって消そうとしたのではないか。
もう1つの推測は、本来本像は別の寺院にあり、それが高貴寺に移され空海自刻とされるにあたり、元の願意、願主の存在を隠そうとしたという可能性である。
「消された銘文の謎」。なんともミステリアスである。これによって本像の魅力はさらに深めらえていると言えよう。
さらに知りたい時は…
「河内高貴寺弁才天像私見」(『国華』1147)、松島健、1991年6月
『月刊文化財』321、1990年6月
→ 仏像探訪記/大阪府
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