慈光寺宝物館の諸像

  関東を代表する古刹に伝わる仏

住所

ときがわ町大字西平386

 

 

訪問日 

2008年12月7日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

ときがわ町ホームページ・県指定文化財

 

 

 

拝観までの道

ときがわ町は埼玉のほぼ中央にある。町は東西に長く、東部にJR八高線の明覚(みょうかく)駅がある。西部は外秩父の山地で、西から東へと都幾川(ときがわ)が流れ、その本・支流沿いに集落が発達している。

町の北部に400メートル級の都幾山があり、慈光寺はその山腹にたつ。

 

慈光寺までは、明覚またはそのひとつ南側の駅・越生(おごせ、東武越生線の終点でもある)からときがわ町代替バスが出ている。直通または「役場第二庁舎前」、あるいは「慈光寺入口」で乗り替え、「慈光寺」下車すぐ。ただし「慈光寺入口」まではバスの本数は多いが、「慈光寺」まで行くものは少ない。「慈光寺入口」からも歩けない距離ではないが、行きは厳しい上り坂となる。

 

 → ときがわ町路線バス

 

宝物殿は基本的に年中無休で開かれており、見学は本堂で申し込む。本堂拝観は12時から13時までお昼休みとなっているので、その時間は避ける。

 

慈光寺ホームページ  

 

 

拝観料

宝物殿入館料300円(本堂は志納)

 

 

お寺のいわれ

慈光寺の創建は奈良時代後期、鑑真の弟子の道忠(釈道忠)と伝える。道忠の弟子円澄がのちに最澄の後継者(2代めの天台座主)となり、その縁によってか、天台宗寺院として発展した。

その創建の伝がどこまで確かかはともかくも、関東屈指の古刹であることは間違いなく、平安前期の古写経や一木造の仏像が伝えられている。

寺は鎌倉時代に最も栄えた。頼朝の外護を受け、子院は75坊を数えたという。どのようなつながりによるものか、京都の貴族より装飾法華経(国宝・慈光寺経)が寄進され、また臨済宗の祖・栄西の弟子栄朝寄進の釣鐘も残されている。これは本堂下の鐘楼でみることができる。小ぶりですっきりとした姿の鐘である。

室町時代には寺運は衰退したが、江戸時代には再び幕府の保護を得た。現在は霊山院を除き子院として成立した寺院のすべてが廃絶したものの、坂東33か所の観音札所として信仰を集めている。

 

宝物殿は「金蓮蔵」という名前がついている。1976年竣工。それ以前は慈光寺の宝物は蔵に納められ、公開される機会が少なかったが、この宝物殿ができて国宝の法華経などの寺宝を拝観できるようになった。

仏像は下に述べる3躰のほか、伝役行者像(文殊菩薩の眷属である最勝老人の像か)や懸仏、また神像も展示されている。

 

 

拝観の環境

宝物殿内は明るく、よく拝観できる。

宝冠阿弥陀像と聖僧文殊像はガラスごしだが、斜めから見ると像の奥行きなどがなんとかわかる。天部立像はケースなしで展示され、側面からもよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

宝冠阿弥陀像は、像高55センチあまりの比較的小さな坐像である。もと慈光寺子院の浄土院本尊だったが、同院が20世紀初頭に廃絶し、慈光寺の移された。

頭上の髷や冠は亡失しているが、冠の台が残り、また通肩という袈裟を両肩にしっかり巻いている着方で、それが胴にぴったりとつくようにあらわされていることから、天台宗で行われていた常行三昧行の本尊像の姿であることがわかる。

少し反り返るようにして座り、顔はすましている。全身のバランスはよい。衣の襞(ひだ)はしっかりと刻まれているが、やや単調な感じでもある。ヒノキの割矧(わりは)ぎ造で、玉眼。鎌倉時代の作。

鎌倉時代初期、慈光寺の常行堂が供養されたことが史料から知られるが、本像はその本尊としてつくられたものではないかと推測されている。

両手先は後補。観音、勢至菩薩を脇侍とするが、これは近世の作。

 

聖僧(しょうそう)文殊像は、像高94センチの坐像。ヒノキの寄木造である。

文殊菩薩はさまざまな像があるが、僧の姿であらわす聖僧文殊像は中国起源であるらしい。日本では最澄が食堂(じきどう)にこの像をまつることを説いたので、天台の寺である慈光寺にふさわしい像といえる。ただ、老僧の姿でつくられることが多いが、この像は壮年のがっしりとした姿でつくられているところがおもしろい。目は玉眼であったが、現状彫眼にかわってしまっている。

 とにかくたくましい印象の像である。どっしりした体つきとそれを支える脚部は重厚である。腕から足にかけての衣褶は大胆で、太い線が奔放に流れる。顔はきりりと引き締まって力強い。これで本来の玉眼であったらどれほどの迫力であったかと思う。修行する僧らはおそらくこの像に厳しく見つめられ、身が引き締まる思いであったろう。

また、この像は体の奥行きがきわめて厚い。面奥も厚いが、体の分厚さは半端でない。なかなか魅力ある像である。

像底部は、上げ底式にくり残しているという。この方法は慶派に多く見られる技法である。

 

像内から銘文が見つかっている。実はこの銘文発見までは、この像は慈光寺を開いたとされる道忠の像と伝えられていた。銘文に「慈光寺」「聖僧文殊」の文字があり、もともとこの像が慈光寺のためにつくられたということ(ただしどの堂にあったかは不明)と、像名が知られた。また、造像年として鎌倉後期の1295年の年と、仏師名として「光慶」の名も書かれている。光慶は他の事績は知られないが、名前から慶派に連なる仏師と推測される。

かつての写真を見るとかなり傷んでいたが、1983年に修理が行われて面目を一新した。両手先は後補である可能性がある。

 

天部立像は、像高180センチあまり。手、足先を失い、表面もはなはだしく損傷した痛々しい姿である。もと寺内にあった毘沙門堂の本尊であるとして、毘沙門天像と寺では伝える。一木造で、木芯を込め、内ぐりもない古様な像で、平安時代も前期までさかのぼる可能性がある。現状ではとても元の姿を想像できないが、腰のあたりの太さからは一木彫の仏像の迫力が伝わってくる。

 

 

その他

本堂の本尊阿弥陀像は近世作だが、脇侍の観音、勢至菩薩は鎌倉前期のもの。この脇侍像は片足を前に出して崩した座り方の坐像であるのが珍しいが、像まで距離があり、あまりよくは拝観できない。像高は約50センチで、カヤの割矧ぎ造という。

 

観音堂は坂東三十三カ所の霊場で、江戸時代後期の再建。二十八部衆像など、堂の回りは賑やかに彫り物で飾られている。

本尊の千手観音像は室町時代の作。秘仏で、4月第2日曜日と4月17日に開帳されるそうだ。向って左側にはやはり室町時代と考えられる十一面観音像が安置されている。こちらは厨子の扉が開かれているものの、堂の入口からは姿はよくわからない。

 

 

さらに知りたい時は…

『運慶 鎌倉幕府と霊験伝説』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2018年

『慈光寺』(展覧会図録)、埼玉県立歴史と民俗の博物館、2015年

「慈光寺蔵 木造観音菩薩及び勢至菩薩坐像」(『国華』1401)、副島弘道、2012年7月

「慈光寺蔵 木造阿弥陀如来坐像」(『国華』1401)、奥健夫、2012年7月

『埼玉の仏像巡礼』、青木忠雄、幹書房、2011年

『都幾川村史資料』6-4、都幾川村史編さん委員会、2000年

『慈光寺』(『さきたま文庫』8)、梅沢太久夫、さきたま出版会、1989年

『増訂版 関東古代寺院の研究』、鶴岡静夫、弘文堂、1988年

『都幾川村の史跡と文化財ーふるさとの散歩ガイド』、都幾川村文化財調査委員会、1983年

 

 

仏像探訪記/埼玉県