観福寺の懸仏

  もと香取神宮に伝来

住所

香取市牧野1752

 

 

訪問日 

2008年2月10日 

 

 

 

拝観までの道

香取市には観福寺という名前のお寺が2つあるらしい。鎌倉時代の懸仏(かけぼとけ)が所蔵されているのは、佐原駅の南、牧野というところにある観福寺である。

佐原駅の改札を出ると、床に、観福寺まで二千二百数十歩と書かれている。江戸後期、足で全国を歩き地図をつくった伊能忠敬ゆかりの地らしく、歩数で表示しているのがおもしろい。伊能忠敬の一歩は70センチくらいだったそうで、従って観福寺まで1.5キロ余り、徒歩約25分くらいである。

駅前にタクシーが待っているので、それに乗ると800円くらい。バスもあるが、本数が極めて少ない。駅前の観光協会にはレンタサイクルがあるので、これを借りるという手もある。

 

本堂に向って右側に受付があり、そこで拝観のお願いをする。ただし、お寺に手があるときに拝観可能ということで、事前に連絡してからうかがう方がよい。

 

 

拝観料

志納

 

 

お寺や像のいわれ

観福寺は、中世には鎌倉幕府の有力御家人であった千葉氏の祈願所として栄え、近世には伊能家の厚い尊崇を受けた。本堂は江戸後期の再建だが、大きく立派なお堂で、この寺院の繁栄の歴史を感じさせる。

観福寺の懸仏は、もとは香取神宮におさめられていたものである。それが近代初頭の神仏分離の際に廃棄されるようにして神社から出た。一時は埋められていたともいうが、篤志家によってこの観福寺に収蔵されることになった。

 

 

拝観の環境

懸仏は、収蔵庫に安置されている。4躰の懸仏が伝えられているが、それぞれガラスのケース内に納められている。収蔵庫の中まで入れていただけるので、すぐ近くで拝観することができる。

 

 

懸仏について

懸仏は鏡像から発展したものと考えられている。

鏡像は、その名の通り鏡の面に像を線彫りしたものである。日本独自のものといわれることがあるが、宋より請来された京都・清凉寺の釈迦如来像の像内納入品には中国製の鏡像が含まれているし、朝鮮半島でも同様のものがつくられたことがわかっている。ただし日本の鏡像は、鏡は神道におけるご神体で、そこにその神の本地仏である仏像を刻むという例が多く、神仏習合の所産であるという点が独特である。かつては御正体などとも呼ばれた。

 

鏡像が発展して、鏡面から浮き出て来たかのように鏡に半肉彫りの像を取り付けるものがあらわれ、さらに全身まるごとを鏡に取り付けた大型のものまで登場するようになる。こうなると工芸作品というよりも彫刻作品のようで、後ろの鏡にあたる部分は光背のように見える。釣り輪が付けられて、懸けて礼拝されるという形をとったことから、こうした円形の鏡面に半肉彫りや高肉彫りの尊像と取り付けたものを懸仏と称している。

 

観福寺に伝わる懸仏は、鏡面の直径が70センチ以上ある大型のもので、そこにほとんど丸彫りの仏像が取り付けられている。鏡の裏面には銘文が入っており、極めて重要な作例である。

 

 

懸仏の印象および銘文について

香取神宮の主神は経津主(ふつぬし)命という神様だそうで、その本地仏は薬師如来とされる。だが、中世以後、香取神宮には奈良・春日社にならって四所明神(藤原氏の氏神とされた4柱の神々)がまつられていた(この地は中臣氏=藤原氏の本拠地であり、香取神宮も奈良の春日大社との関係が深かった)。従って、この観福寺懸仏4躰(釈迦、十一面観音、地蔵、薬師)は、四所明神の本地仏としてつくられたものである。

 

懸仏4躰は、それぞれ30〜40センチほどの坐像で、金銅製である。もとは鍍金されていたと思われるが、すっかり落ちている(鏡面は鍍銀されていたと思われる)。香取神宮から出たときに手荒い扱いを受けたであろうにもかかわれず、保存状態はよい。鋳上がりもよく、頭部がやや大きめだが、調和がとれた姿である。頬の肉付きはよく、円満な丸顔であり、また厚みのある体をしている。肩からかかる衣はゆったりしているが、膝のあたりはしっかりと襞をつくり、メリハリがある。

像の下につくはずの蓮台は失われている(薬師如来のみ蓮台がついているが、後補)。鏡面は、薬師如来ではまったく失われ(後補のものがつけられている)、他の3躰のものは一部に欠損がある。

鏡面には銘文が書かれる。本来銘が書かれている方が背面になると思われるが、銘文が見えるようにという配慮で前後逆に取り付けられた状態で安置されている。

 

釈迦如来と十一面観音の鏡面の銘文はほぼ同文で、本地四体のひとつであること、1282年に仏師蓮願がつくったと書かれている。願意として「天地長久」、「当社繁昌」とともに、「異国降伏」が書かれているのが異色である。この1282年は2度めの元寇である弘安の役の翌年であり、3たびの来襲も予測されていたからであろう。

一方、地蔵菩薩の銘文には1309年に亡父実政の供養のためとあるので、前2者とは造像目的が異なっている。仏師名は書かれていない。年代が30年近く後で、鎌倉時代も末期になってきたためか、あるいは仏師の力量の差なのか、この像はやや伸びやかさに欠けているように思われる。

 

鏡面は3躰とも銘文の左側の一部分が失われている。願主の名前が書かれていた部分で、3つとも同じところが欠けたというのは偶然とは思われない。香取神宮から出てこの寺に安置される過程で、はばかりがある等の判断がされ、切り取ったということが考えられる。

地蔵菩薩の鏡面には欠損部分のすぐ下に「胤」と見える字が残っていることから、願主の名前は香取神宮の神職であった大中臣実胤で、銘文中の「亡父実政」はやはり香取の神職であった大中臣実政のことと考えられる。さらに、大中臣実政は元寇ごろに活躍したと考えられるので、釈迦如来と十一面観音の懸仏の造像者はこの実政であると推定される(釈迦如来と十一面観音の鏡面の欠損部の残画から「朝臣實政」と復元できるという説もある)。

 

薬師如来の懸仏は、鏡面が失われているので年代等不明であるが、同時期のものであると思われる。

 

 

その他

収蔵庫内には、測量図(琵琶湖周辺のもの)など、伊能忠敬関係資料も展示されている。

 

 

さらに知りたい時は…

「国宝クラス仏をさがせ! 17 観福寺銅造懸仏」(『芸術新潮』869)、瀬谷貴之、2022年5月

「観福寺蔵 釈迦如来坐像懸仏・十一面観音菩薩坐像懸仏・地蔵菩薩坐像懸仏・薬師如来坐像懸仏」(『国華』1265)、武笠朗、2001年3月

『房総の神と仏』(展覧会図録)、千葉市美術館、1999年

『鏡像と懸仏』(『日本の美術』284)、難波田徹、至文堂、1990年1月

『平安鎌倉の金銅仏』(展覧会図録)、奈良国立博物館、1976年

『房総の古彫刻』、郡司幹雄、隣人社、1968年

 

 

仏像探訪記/千葉県

十一面観音懸仏
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