真野寺と石堂寺の秘仏

  丑年と午年の春にご開帳

真野寺
真野寺

住所

南房総市久保587(真野寺)

南房総市石堂302(石堂寺)

 

 

訪問日 

2009年4月5日 

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

真野寺ホームページ・祭事   千葉県教育委員会・木造十一面観音立像

 

 

 

安房国札観音霊場について

千葉県南部、旧安房国には三十四カ所の札所霊場がある。鎌倉時代、悪疫と飢饉がはびこった時代に僧らがはかり、観音霊場の道が整備されたと伝える。

観音菩薩は33の様々な姿に形を変えてあらゆる人を救うとされ、この数字にちなみもと33か寺であったが、番外の寺が最後に加えられて34カ所になったらしい。

これら寺院の本尊は多くが秘仏であるが、丑年(本開帳)と午年(中開帳)、つまり12年に2度、まとまって開帳される。時期は3月10日から4月10日までの1ヶ月間と定まっているらしい。

 

どの寺でもお堂の前に四面に文字を書いた大きな角塔婆が立てられ、そこから開帳仏の観音さまの手に紐が結ばれる。紐の途中にはいくつもお賽銭受けがぶら下がっていて、見ていると巡礼の方はあらかじめ小銭を用意してあるらしく、そのひとつひとつにお金をあげながらお像の方に進んでゆく。信仰厚き巡礼の道が今も生きている。 

 

*その後の午年、つまり2014年の3月〜4月にかけても34ヶ所の総開帳が行われた。次は2021年の予定。

→ ちば南房総「安房国札観音霊場巡り」 

 

 

拝観までの道

安房の34霊場には平安時代にまでさかのぼる古仏を伝えている寺院がいくつかある。第20番札所の石堂寺(いしどうじ)と第25番札所の真野寺(まのじ)の本尊は平安期の仏像で、いずれも秘仏として普段は厨子中に秘められている。

 

真野寺へは、館山駅から館山日東バス館山・鴨川線で約20分、「九重大井」下車、東南に徒歩20〜25分。バスの本数は2時間に1本程度。

石堂寺へは館山駅から館山日東バス丸線で約40分、「石堂寺前」下車すぐ。バスの本数は平日は2時間に1本程度あるが、土休日は少ない。

 

筆者が訪れたのは日曜日であったので、丸線の本数が少なく、途中タクシーを使った。

真野寺を訪れたのち「九重大井」バス停に戻り、「古川」まで乗車、近くの古川タクシーで石堂寺へ(約5キロ)。拝観ののちバスで館山に戻るというルートでまわった。

 

バス・タクシー以外の交通手段としては、館山駅にあるレンタサイクル。健脚の方には向いているかもしれない。

 

真野寺ホームページ  

石堂寺ホームページ

* バスの時刻の問い合わせは館山日東バスへ(電話0470-22-0111)

 

 

真野寺の本尊像について

真野寺は古代草創と伝え、もとは高倉山という山の上にあったという。頼朝、北条氏、里見氏、徳川氏などの保護を受けて栄えたが、江戸時代の地震と関東大震災で大きな被害を受けた。それほど大きなお寺ではないが、本堂は1960年に再建され、四季おりおりの花咲く美しい寺院である。

本堂正面の厨子内には千手観音像が安置され、その左右には二十八部衆像、風神・雷神像が、そして外陣には大黒天像が安置されている。それぞれユニークな仏さまである。

 

千手観音像は「覆面観音」とよばれる。「覆面」というのは、お面をつけている観音さまであるから。ご開帳のときもお面がつけられ、お顔は見ることができない。お札の頒布所の方にお聞きしたところ、観音さまのお顔を拝んだことがあるのは住職さんくらいで、信者の皆さんもご存じないとのこと。その方のお話によると、観音さまのお力は余りにも強大で、その影響力はプラスの方向のみならず及ぶために、お顔を隠したという言い伝えがあるそうだ。面も中世の行道面で、貴重なものという。

面をつけている仏さまというのはなんとも不思議な感じである。

クスの一木造で内ぐりもない古様な仏像だが、衣文の線は浅く、平安時代後・末期の地方的な造像と思われる。手は一部失われたようで、現状32本。像高は約170センチ。

 

*鎌倉・杉本寺の3躰の十一面観音像のうちの1躰も、「覆面観音」と称されている。

 

 

真野寺の二十八部衆像と大黒天像

本尊厨子の左右には二十八部衆像および風神・雷神像が並ぶ。

ヒノキの一木造、像高は50センチ〜70センチの比較的小像である。像の中に南北朝時代の1335年、仏師上総法橋の作との墨書銘をもつものがあり、中世の在銘像として貴重であるが、一部は失われ、また破損している像も多い。なお、これらの像は外陣からの拝観なのでやや距離があり、若干拝観しづらい。

 

大黒天像は外陣に安置されているので、近い距離から拝観できる。

像高約140センチと大黒天像としては大型の像である。クスの一木造で、袋を持ち、俵に乗る、我々がよく知る姿の大黒天像だが、顔は笑顔でなく、なかなかいかめしい。

もともと大黒天はインドではシヴァ神の化身で忿怒形にあらわされ、日本に伝わっても平安時代ごろまでは怖い顔つきで、鎌倉時代ごろからは次第に福徳の神として優しい表情であらわされるようになる。この像はそのかわりめ頃の作なのであろう。

真野寺は通称「真野の大黒さん」と呼ばれていて、この仏像は名高い。円仁がこの地域に来た際大黒様が姿を現し、円仁はその姿を自ら彫ったのがこの像といい、その縁日である2月6日は、館山から直通のバスも運行されて大変賑わうそうだ。

 

石堂寺千手観音像
石堂寺千手観音像

石堂寺の本尊像について

石堂寺はかつては石塔寺といったとも伝え、古代創建の古刹である。中世、この地域には丸氏という武士が勢力をもち、石堂寺を支えた。現在境内には本堂、多宝塔、薬師堂などがあるが、これらは1486年の火災ののち、16世紀に復興、建立されたものである。

このお寺の本尊である聖観音像は本堂厨子内に安置され、ご開帳期間中はお願いすると内陣に入れていただける。しかし厨子の中は暗く、しばらくするとやや目が慣れてくるが、それでもかなり厳しい。

写真で見ると優しい表情で、プロポーションや衣の流れも美しい像である。像高は約180センチ。カヤの一木造で、内ぐりもほどこさない古様のつくりであるが、平安時代後期の作と思われる。なお、本堂は15世紀の大火後の1513年の再建で、厨子も同時代のもの。

 

 

石堂寺の千手観音像について

本堂に向って右手に多宝塔がたつ。戦国時代の16世紀なかばの再建である。

本尊は鎌倉時代の千手観音像で、像高約1メートルの坐像。ヒノキの寄木造。

 

丸々と張った顔で、若々しい感じの像である。玉眼がすがすがしさを加えている。姿勢よく、たいへんバランスのとれた端正な座り姿の像。像底は上げ底式にくり残しているそうで、これは運慶一派がよく用いた手法である。運慶から1〜2代あとの慶派仏師の作と思われる。

頭上面にも玉眼を用いたものがあり、内ぐりも大変丁寧になされていて、入念の作といえる。

保存状態のよさも特筆すべき像で、脇手はそのすべてが当初のもの、また光背や台座も当初部分が大きい。

塔の扉口からの拝観で、像までの距離が若干あるものの、光もよく入ってよく拝観できた。

 

 

さらに知りたい時は…

『南総天台の仏像・仏画』1、天台宗南総教区研修所、2017年

『仏像半島』(展覧会図録)、千葉市美術館、2013年

『鎌倉時代造像論』、吉川弘文館、塩澤寛樹、2009年

『安房国札観音霊場巡り』、藤波重昭、株式会社コア、2009年

『千葉県の歴史 通史編 中世』、千葉県、2007年

『千葉県の歴史 通史編 古代 』2、千葉県、2004年

『日本彫刻史の視座』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年

『ふさの国の文化財総覧』1、千葉県教育庁教育振興部文化財課、2004年

『房総の神と仏』(展覧会図録)、千葉市美術館、1999年

『房総の仏像彫刻 』、千葉県教育委員会、1993年

『千葉県の指定文化財』第2集、千葉県教育委員会、1992年

『千葉県指定有形文化財石堂寺多宝塔修理工事報告書』、石堂寺、1991年

 

 

仏像探訪記/千葉県