山口地蔵堂の地蔵菩薩像

  日本一大きな木彫のお地蔵さま

住所

市原市山口270−1

 

 

訪問日 

2008年10月18日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

千葉県教育委員会・市原市の有形文化財

 

 

 

拝観までの道

市原市は南北に長い。人口は北部の八幡宿、五井、姉ケ崎地区に集中し、南部は農村、丘陵、さらに有名な養老渓谷などの景観豊かな場所もある。北部の五井から南部へと小湊鉄道が養老川にそって走っている。上総牛久駅までは有人の駅がほとんどだが、それより南は無人駅が多くなる。上総牛久から3つめの上総久保駅も無人駅である。

上総久保駅の西に山口という地区があり、ここに丈六の木造地蔵菩薩像が伝わっている。

駅の西にある音信橋で養老川を渡る。そこから600メートルほど西南方向に歩くと十字路がある。山口屋商店が目印である。その角を左折し、やがて右側に八坂神社が見えてくるので、それを過ぎると地蔵菩薩像と書かれた看板があるので、そこを右折。駅からは25分〜30分くらいである。

 

山口地蔵堂は山口地区で管理委員会をつくって守っている仏像である。拝観は、市原市教育委員会を通じてお願いする。

 

 

拝観料

志納

 

 

お堂や仏像のいわれ

駅から地蔵堂への途中で渡る橋の名前は音信(おとずれ)橋という。面白い名前である。ここからさらに西、木更津市との境に標高300メートル弱の音信山という山があり、古い地名であるらしい。音信山は今は林道が通るばかりだが、かつては霊山としていくつものお寺が建っていたという。「おとずれ」とは、なるほど霊山にふさわしい名前である。

 

かつてこの音信山に光明寺というお寺があった。いつのころか山をおりて東に移り、今も小湊鉄道上総鶴舞駅(上総久保駅の隣)の東にある。この光明寺移転の際、養老川を渡るのに難渋し、大きな地蔵尊像を川の手前の山口の地区にやむなく残していったと伝える。

だが、果たしてそのようなことが本当にあったのだろうか。

丈六の仏像であれば、一寺の本尊であろう。山中の寺にこれだけの仏像を造り、安置するのは相当大変だったはずである。その大切な本尊を、いかに険しい渓谷とはいえ、川を渡るのが難しくて残して行くなどということがあるだろうか。

しかし、江戸時代、光明寺から地蔵菩薩供養料として田を山口村に差し出したという記録が残っているそうで、少なくともこの仏像が光明寺に関係する像であることは確からしい。

 

 

拝観の環境

お堂の扉には四角い穴がつくってあって、そこから覗くことはできる。

しかし、やはりよく拝観するのには、市原市教育委員会を通してこの市原市山口地蔵管理委員会に連絡をして、開扉していただく方がよい。堂内で間近で拝観できるが、像がお堂の奥いっぱいに安置されているので、正面からのみの拝観である。

 

 

仏像の印象

顔が細長く、目や唇は薄くつくられ、独特の顔立ちである。体躯はがっしりと四角張るように大きく、それを受け止める下半身の膝が左右に大きく張っていて安定感がある。自在な衣の流れ、特に左胸には大きな曲線が刻まれている。足をくるむ衣の襞(ひだ)は太く、力強くつくられ、また、ふくらはぎや足の裏は肉厚で魅力的である。

 

制作年代は鎌倉時代末ごろと考えられているが、この時代、地蔵信仰の高まりとともに木彫や石造の丈六の地蔵像が各地でつくられたようだ。木彫の丈六地蔵坐像としてすぐに思い浮かぶのは奈良・福智院の像だがその像高は272センチ、一方この山口地蔵堂像は像高275センチと、こちらの方がわずかに高い。管理委員会の方のお話では、この像は日本一大きい木彫の地蔵坐像だそうで、その言葉の端々にこの像への尊崇と愛情が感じられて、ほほえましかった。

 

 

その他

堂内には、修理前のこの像の姿、修理の様子などの写真が展示されている。かつてのお堂が20世紀初頭に暴風雨で倒壊して被害を受けた上に、その後の仮堂では十分な保存ができなかったことから像の傷みが進んだ。戦後、次第に生活の復興がなされるとともに、像の修復と耐火性のお堂の新築の機運が村で高まり、1962年に像の修復がなったそうである。その開眼供養の際の村を挙げての祭りの様子の写真も展示してある。また、像内には梵字の墨書があり、その写真も掲示されている。

 

 

さらに知りたい時は…

『市原市史 別巻』、市原市教育委員会、1979年

 

 

仏像探訪記/千葉県