浄土寺浄土堂の阿弥陀三尊像

  夕方の日差しの中に浮かび上がる

住所

小野市浄谷町209

 

 

訪問日

2009年7月19日、 2019年8月17日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

小野市観光協会・観光スポット

 

 

 

拝観までの道

浄土寺は、神戸電鉄粟生(あお)線で小野駅下車。

北東に徒歩約50分、または駅前に常駐するタクシー。

バスでは、小野市コミュニティバスらんらんバス(北廻り循環ルート、または中谷ルート)に乗車し、「浄土寺」下車。ただし、バスの本数は少ない。

 

小野市・コミュニティバスらんらんバス

 

拝観の時間は、4月~9月は9時から17時だが、10月~3月は16時まで(ただし12時~13時はお休み)。

 

 

拝観料

500円

 

 

お寺や仏像のいわれ

1180年の平家の南都焼き討ち後、大仏再興の中心を担ったのが俊乗房重源である。

 

重源は播磨(兵庫県)、伊賀(三重県)、周防(山口県)など7つの東大寺別所を設けることで東大寺復興の基盤をつくったが、その播磨別所こそがこの浄土寺である。特に浄土堂は重源によってつくられたお堂と仏像が現在へと伝わったものである。

宋に3度渡ったといわれる重源は、中国から新たな様式を積極的に導入したが、このお堂は東大寺南大門とともに今日に伝わる大仏様の建築の代表である。木組みを積極的に見せるが、決して粗放でなく大変美しい建物と思う。

仏像は快慶の前半生の代表作で、やはり宋の新様式を取り入れている。

像は壇の下で堂と一体化しているそうで、地震には非常に強い。こうしたつくりも重源の指示によるものなのであろう。

 

 → 東大寺俊乗堂の俊乗上人像の項も参照してください。

 

 

拝観の環境

浄土堂は阿弥陀仏をまつる阿弥陀堂。阿弥陀仏が西方極楽浄土のあるじであるので、境内の西に東面してお堂をつくるというのは、宇治・平等院鳳凰堂などとも共通する。ただし、平等院鳳凰堂と決定的に異なるのは、西に窓をあけ、午後の日ざしが像の背面からさしこむようにつくられていることである。

 

夕方が近づくと、お堂の中央に立つ阿弥陀三尊像のほぼ真後ろに太陽が降りてくる。ゆっくりと太陽が直接お堂に入りはじめ、ヒノキの床に反射し、堂内全体が明るくなってゆく。お堂の木材は朱で塗られ、間の漆喰の白と美しいコントラストを見せているが、床で反射した光は建物内で乱反射し、化粧屋根裏の高い部分へ、さらに反射を重ねて仏像の前面へと広がってゆく。

このお堂の説明として、夕日が直接像の後ろから照らすと書いたのものがあるが、正確ではない。浄土堂の夏季の拝観時間は17時まで。夕日が黄金色に輝くには早い時間である。しかし、堂内が最も美しく輝くのは夕日でなく、西日が下がって来た時間帯なのである。光がまだ強く、かつお堂のほぼ真後ろに太陽が傾くころ、すなわち夏の16時から16時半ごろが最も理想的な時間帯で、光は後ろから来ているにもかかわらず、乱反射によって仏像の姿がよく見え、かつ赤い光に浮かんで見えるのである。

夏の晴れた日のこの時間帯に拝観に来ることをお勧めする。

像は近くから、また側面、背面もよく拝観できる。

 

 

仏像の印象

中尊の左右の手の挙げ方は一般の阿弥陀像とは逆であるが、宋の仏画を参照したためであろう。他にも脇侍の長い髻や長い爪など宋風である。

中尊は像高5メートルを越え、立像の丈六像として、その前に座ると雲をつくような大きさである。ただし、全体に大味な感じで、快慶が得意とした3尺(1メートルほど)の精緻な阿弥陀像に比べてやや平面的な感じがするが、もとが図像であればそれは当然のことかもしれない。

しかしながら、光に包まれている三尊像は立体感がどんどん出て来て、本当にすばらしい。

 

 

阿弥陀三尊像をめぐる史料および像内銘について

浄土寺については、重源自らが著した『南無阿弥陀仏作善集』の中の播磨別所の項に「浄土堂一宇」として、皆金色の丈六阿弥陀像と脇侍像を安置したことが見える。

一方、『浄土寺縁起』(神戸大学本、安土桃山〜江戸時代初期の写本だが原本をよく伝えるとされる)という書物の中に、浄土堂は1194年に完成し、仏像は「大仏師丹波法眼懐慶」によって1197年につくられたとある。この「懐慶」は快慶のことである。

 

中尊・阿弥陀如来像の像内の全面に墨書銘がある。1985年から3度にわたり、像底のわずかな隙間からレンズを差し込んで撮影するという方法で見いだされた。ただし、物理的制約のために銘文のすべては確認できていない。

中に1195年をあらわす年がある。像内銘は内ぐりを整えたのち像を組み上げる間でなければ書くことができないので、『浄土寺縁起』の1197年完成という記述と符合する。おびただしい数の人名も書かれるが、重源や快慶など造寺・造像の中心となった人の名前はなく、そのほとんどは在地の人々が阿弥陀仏への結縁のために記したものと考えられる。

 

1996年度、兵庫県南部地震による損傷の保存・修理がなされた際に、像の右の耳穴から頭部にファイバースコープを入れたところ、数巻の巻物と包まれた納入品が確認された(写真撮影や取り出しは行われていない)。造像の主要人物の名前はこちらの納入品の中に書かれているのかもしれない。

 

 

その他

この寺には重源上人坐像や阿弥陀如来立像(迎講本尊)も伝えられているが、現在奈良国立博物館に寄託されている。

 

 

さらに知りたい時は…

『播磨の国宝』、播磨学研究所・編、神戸新聞総合出版センター、2018年

『快慶』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2017年

『週刊朝日百科 国宝の美』28、朝日新聞出版、2010年3月

『見仏記 ゴールデンガイド篇』、いとうせいこう・みうらじゅん、角川書店、2009年

『兵庫・浄土寺阿弥陀三尊と播磨』(『原寸大日本の仏像』38)、講談社、2008年3月

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』1、中央公論美術出版、2003年

『重源上人』(展覧会図録)、四日市市立博物館など、1997年

『小野市史 別巻 文化財編』、小野市史編纂専門委員会、1996年

「浄土寺浄土堂阿弥陀如来像の銘記について」(『日本彫刻史研究』、中央公論美術出版、1996年)、水野敬三郎

 

 

仏像探訪記/兵庫県