高田寺、西明寺、西念寺の平安仏

木津川市の「秘宝・秘仏特別開扉」で公開

高田寺
高田寺

住所
木津川市加茂町高田奥畑56(高田寺)
木津川市加茂町大野大野27(西明寺)
木津川市鹿背山鹿曲田65(西念寺)


訪問日 
2019年11月2日


この仏像の姿は(外部リンク)
木津川市観光ガイド・木津川市の文化財



木津川市の「秘宝・秘仏特別開扉」について
京都府の木津川市では毎年秋、およそ10か寺による寺宝の公開の催しが行われている。
11月上旬を中心とした時期で、2019年の場合、11月2日から4日を中心に、お寺により2日間から2ヶ月間まで期間はさまざまに設定されていた。
また、5月にも同様な催しが行われることもあるらしい。


高田寺(こうでんじ)の薬師如来像
高田寺は関西本線の加茂駅の南、徒歩30分くらいのところにある真言宗寺院である。バスはJR奈良駅西口から加茂駅間の奈良交通バスで「高田東口」下車。西へ2~3分で着く。
拝観料は400円。堂内でよく拝観させていただけた。

本尊の薬師如来像は、像高およそ90センチの坐像。ヒノキの寄木造。平安時代の上品な像。
端整な顔立ち。まぶたのふくらみが自然で、小鼻は小さい。肉髻は自然な盛り上がりを見せ、螺髪は小粒でよく整う。
上半身は姿勢よく、衣のひだは浅い。左足を上にして組んでいる。
台座内に保安の元号が書かれることから、1120年代前半の作と考えられている。台座、光背まで当初のものが揃っていることと、年代が推定できるという点でたいへん重要な作例といえる。


台座の墨書
薬師如来像の台座は、蓮華の下にさまざまなパーツを組み合わせた豪華なつくりである。合わせて9つの部分からなることから九重蓮華座と呼ばれるが、修理の時以外は人目に触れることがない板の裏側に墨書が残されている。
ことに重要なのは、下方にあるちょっとつぶれたような丸形のパーツ(敷茄子)と反花(反り返った花弁をあらわす)との間にはさまる受座と呼ばれる八角形の板の裏側で、ここに「保安」の年号と思われる文字、および「我君」「長生殿」といった漢字、ひらがな書きの和歌、そして人物像の戯画らしき線が墨書されている。1973年の修理時に発見され、赤外線写真によって判読された。文字は整然とではなく散らしたようにして書かれ、部分的には繰り返し書かれているところもあり、下書きのようでもある。

和歌は「五月やみくらはし山のほととぎす おぼつかなくもなきわたるかな」。これは藤原実方の和歌で、『拾遺和歌集』巻二夏にとられたものである。実方は「かくとだに」からはじまる和歌が百人一首にも選ばれている有名な歌人であるが、同じ面に書かれている「保安」の頃からは百年以上前の人物である。この仏像と和歌、あるいは藤原実方との関係については、不明というほかはない。
しかし、台座の中に和歌が秘められていた仏像と知ると、いっそうこの仏像がゆかしく感じられる。

 

西明寺
西明寺

西明寺の薬師如来像
加茂駅から西へまっすぐに進み、木津川の支流を渡ったら左折すると、数分で西明寺に着く。駅から徒歩約20分。
行基草創を伝える古刹で、真言宗寺院である。
本尊は薬師如来像。秋の特別公開の時期以外は非公開とのことである。
拝観料は400円だった。

薬師如来像は本堂につくりつけられた厨子中に安置され、拝観位置からはやや遠く、やや暗い。しかしじっくりと拝観させていただくと、すばらしい像であるとわかる。

像高はおよそ90センチの坐像。ケヤキの一木から彫り出し、背面を割り矧いで内ぐりし、そこに1047年の年記が書かれる。11世紀半ばの基準作例としてきわめて重要な像である。
ただし、銘文は1911年の修理の際の記録として残るだけである。写真等は残されていない。大施主として上野信永らの名前、現世と後世の導きを願って造像したこと、永承の年号が墨書されているらしい。永承は1046年~1053年まで使われた元号で、その下の文字は判読が難しいながら「二」「丁亥」と読めるということで、これが1047年作の根拠になっている。
この年代は平等院鳳凰堂本尊がつくられる数年前である。肉髻がお椀を伏せたような形で、比較的高く、また螺髪の粒が小さく整っているところ、また足首から衣の先が前へと美しく流れているところは定朝様の仏像を思わせる。しかし、総合的に見れば定朝の様式からはかなり遠く、地方的な力強さが感じられる。定朝晩年のこの時期にあっても造仏界は定朝様一色になったわけではなく、多様性に富んでいたことがわかる。
上半身は高く、衣のひだも深く刻まれ、首はやや長め、また顔は小さめで丸顔につくる。
目鼻立ちは整い、穏やかだが、個性的なお顔で、心惹かれる。


西明寺から西念寺へ
西念寺はJR木津駅から東北東、徒歩約30分のところにある。最寄りバス停は「鹿背山(かせやま)」で、下車後東に徒歩約10分。
筆者が訪れた11月初旬には「秘宝・秘仏特別開扉」事業にあわせて無料の周遊バスが運行されていたので、「西明寺口」(西明寺の北側、橋の西詰めに停留所が設けられていた)から「鹿背山」まで乗車し、快適に移動できた。

鹿背山は、歌枕としてたびたび和歌にも登場し、また山城国(京都府南部)南部随一の中世山城が残る場所としても知られる。この鹿背山城跡は西念寺の北側にあり、はじめ興福寺が管理し、のちには松永久秀が北からの侵入を防ぐために改造したものだそうだ。
「鹿背山」のバス停は木津川市コミュニティバス(きのつバス、鹿瀬山~高の原駅コース)の終点でもある。このバスは近鉄の高の原駅から山田川駅、JR木津駅を経由して鹿背山まで、日中1時間に1便運行している。


西念寺の薬師如来像
西念寺は行基草創で、もと浄勝寺といい、焼亡と移転を繰り返し、現在地に移ったのは16世紀後半。17世紀末より浄土宗寺院となり今に至る。
現在は阿弥陀如来像が本尊だが、平安時代の薬師如来像が伝来し、こちらが旧本尊であったと伝える。また、今は廃絶した中川寺の旧仏ともいう。
このお像は普段は境内の薬師堂にまつられているが、筆者が訪れた時には本堂内に移されて安置されており、すぐ前よりよく拝観させていただけた。拝観料は800円だった。

像高50センチ強。ヒノキの割矧ぎ造。定朝作の仏像の流れを汲む、平安時代後期の大変美しい像である。
肉髻はお椀を伏せたよう。螺髪の粒は小さく、美しく整う。額を狭くして、目は伏し目がちな半眼である。上半身を大きく取り、肩は優しくカーブする。衣は流れるようで、手はあまりすらりとのびていかない感じ。そして脚部も小さめである。
左足を上にし、この左足の角度や起伏は豊かな印象があり、生き生きとしている。

ところでこの像の材の用い方はかなり独特であるという。まず頭体ばかりか脚部までも1材から彫り出し、耳の後ろで割矧ぐ。脚部は腹部の丸みにあわせるようにして割矧ぐが、このとき脚部の部分の木材は6つの断片にわけて内ぐりをして、またそれを矧いでいるのだそうだ。
台座も当初部分がよく残る。


その他(貝吹き地蔵と安福寺)
近くの浄瑠璃寺、岩船寺付近の当尾の石仏は有名だが、この西念寺の近くにもいくつか中世の石仏が残っている。
西念寺のすぐ下(南側)の道を左(東)へと入って数分行くと「貝吹き地蔵」という石仏がある。大きな岩に半肉彫りで120センチほどの像高、端整な姿形の地蔵菩薩である。手に持った宝珠がホラ貝のように見えたので、この名がついたらしいが、さらにそれが変化して「回復地蔵」とも呼ばれ、病気平癒に信仰が厚いという。

JR木津駅から北へ徒歩10分ほどのところに安福寺という浄土宗寺院があり、「秘宝・秘仏特別開扉」寺院として公開されていた。拝観料は500円だった。
本尊の阿弥陀如来像は、像高約60センチの坐像。ゆったりと座る姿がとても端整な定朝様の美しい仏像である。南都焼打ちの責任者として処刑された平重衡が、死を前にしてこの仏像の手と自らの手を紐でつないで往生を願ったという伝承がある。
お寺の別名は哀堂(あわんどう)といい、これは村人が重衡の死を哀れんだことによるのだそうだ。


さらに知りたい時は…
『院政期の仏像』、京都国立博物館、岩波書店、1992年
「京都高田寺薬師如来像と藤原実方の歌」(『美術研究』294)、猪川和子、1974年7月
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』1、中央公論美術出版、1966年


仏像探訪記/京都府

西念寺
西念寺