蟹満寺の釈迦如来像

  謎につつまれた古代の金銅仏

住所

木津川市山城町綺田浜36

 

 

訪問日 

2007年7月8日、  2015年3月30日  

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

木津川市観光ガイド・木津川市の文化財

 

 

 

拝観までの道

蟹満寺(かにまんじ)は南山城の寺である。

JR奈良線の棚倉という小さい駅で下車し、ほぼ真北へ20〜25分のところにある。ところどころに案内の看板が出ているので分かりにくくはないが、途中細い道を通ったりもするので、地図はあった方がよい。

 

バスでは、木津駅、棚倉駅から木津川市コミュニティバス山城線(渋川行き)に乗車し、「蟹満寺口」下車、東へ徒歩5分。便数は1時間に1本。ただし平日のみの運行。

 

木津川市コミュニティバス(山城地域)

 

 

拝観料

500円

 

 

お寺や仏像のいわれ

不思議な名前の寺である。その由来は、窮地にたった娘が観音に祈ったところ、かつて娘が助けた蟹が恩を返したという説話によっているというが、これは平安末期に成立した『今昔物語集』(巻16)などにある(この地域は古来「蟹幡郷」といい、この地名から変じて「蟹満」となったものか)。

本尊は奈良時代ないしそれ以前につくられた如来像である。創建の経緯や時期など詳しいことはほとんどわかっていない(京都・広隆寺を建てた渡来系の秦氏一族の造寺との伝承があるが、信憑性は不明)。

 

 

拝観の環境

本尊、釈迦如来像は江戸時代再建の本堂に安置されていたが、老朽化のために2007年秋より建て替えられ、新本堂が2010年4月に完成した。

拝観料を払い本堂横手の戸を開けて中に入ると、堂々とした本尊釈迦如来坐像が坐す。

堂内は外からの明かりが障子を通して入り、見やすい。正面・側面ともに近い位置から拝観できる。

 

 

仏像の印象

像高約250センチの金銅像で、鍍金は落ち、全体に黒光りがしている。

一見して、薬師寺金堂薬師三尊像に近い、白鳳期から奈良時代、7〜8世紀の像であるとわかる。

顔から胸にかけては量感豊かに作られ、腰は引き締まっている。特に横から見た頭部が丸々としている。

髪は螺髪がないが、これはもともとそのように作られたものか、別につくってつけられていたものが落ちてしまったのか。

衣は薄く軽やかな感じをよく表現し、肉体の豊かさを感じさせる。特に、脚部にある半円形に同心円状につくられた衣文のひだは、とても美しい。

顔はやや厳めしく、渋い感じである。

指先は長く、近くで見ると圧倒されるほどだが、離れると優美に感じる。

 

 

はじまった活発な論議

蟹満寺の本尊・釈迦如来坐像は、薬師寺金堂の薬師三尊像中尊とほぼ同じ大きさである。薬師寺像と比較すると像容の円満さにおいて劣るとはいえ、その存在感は素晴らしく、鋳上がりの具合も滑らかで美しい。薬師寺の仏像が国家あげての造像であることを考えると、蟹満寺の像が地域の一氏族によるものとはなかなか考えにくい。では、誰が、いつ造像したのであろうか。

 

かつて有力であった説は、近くの廃絶した大寺院から移坐されてきたというものである。そして、この仏像が薬師寺像に先行するのか、後のものと考えるかによって、どの廃寺の旧像である可能性が高いかが論じられてきた(比較対象の薬師寺金堂薬師三尊像自体が、白鳳時代=7世紀後半に造られたという説と、天平時代前期=8世紀前半に造られたという説に分かれているため、ややこしい)。

 

ところが近年、地元教育委員会による意外な調査結果が伝えられると、本像をめぐる論議が一気に高まりをみせた。

まず1990年、蟹満寺本堂の西側で調査が行われ、創建時の金堂と思われる基壇の一部が見つかり、そこからの推定として、創建時金堂は間口は28.5メートルにもなる大規模のもので、その年代は伴出の瓦から、白鳳期の690年ごろ(持統天皇の時代)のものとされた。

そして、現本尊の安置されている場所が創建時金堂の本尊の位置でもあること、基壇には平安時代に焼けた跡が残っているが、この時の火災の痕跡が本尊の衣の裾に残っていることから、蟹満寺本尊は創建時から動いていない可能性が指摘された(『神戸新聞』1990年6月21日記事)。

 

さらに2005年、本堂の建て替えに向け、床下の調査が行われた。すると、本尊台座下は創建時に土を築き固めた層であり、後の時代の地層は入っていないとされた。さらに、平安時代の火災後、鎌倉初期にきわめて小規模の建物が造られ、室町、江戸の各時代に建て直されて今日に至ったということが、創建時の堂の基壇上に残されていた柱の跡からわかった。

これらより、蟹満寺本尊像は、創建時の金堂の本尊として白鳳時代に造られ、その後お堂は同じ場所に規模を変えて3度建て直されたが、像はその場所から動いていないという結論がいったんは導き出された(『京都新聞』2005年10月15日記事)。

こうしたことは、東大寺大仏殿や飛鳥寺が何度かの火災にあい、建物は替わったが、本尊像はその場所を動かずに補修を重ねて今日に至っているという例があるので、あり得ないことではない。

 

 

依然謎につつまれた像

ところが、2008年3月19日の木津川市教育委員会発表によると、1月からの旧境内の発掘調査の結果、本尊台座下には江戸時代の地層が入り込み、また台座そのものも江戸時代の墓石の転用であることが判明したという。これによって、議論は振り出しに戻る形となった。

一連の調査が終わって、報告書も公刊されたが、それによると本像の制作年代や本来の安置寺院などを示す決定的な証拠はまだ得られていない。

 

既述のように、本像は薬師寺金堂薬師三尊像中尊との類似性が極めて高い。像高、手の構えや印相、そして何より衣の様子が非常に近い。

ということは、年代も近く、さらには直接の影響関係があるのだろうか。少なくとも丈六金銅仏を制作できる工房がいくつもあるとは考えにくいので、同じ系列の工人がつくり上げた可能性はあるだろう。

 

しかし、両者を子細に比較すると、異なる点もある。

まず、顔立ちの印象。円満な薬師寺像に比べて、本像は厳しさを感じさせる。眉の角度、目の輪郭の様子、口もとの曲線、四角ばった顔つきがそう見せているのであろう。

実は、今回の調査で、顔は鋳かけ直して修正されていることが明らかになった。修正は像の内側にまでは達していないので、鋳造のミスによるものとは考えにくい。あくまで表情を直すためのもののようである。

次に、これも上述したところだが、脚部の衣にある同心円形の半円の連なりは薬師寺の像には見られない。奈良時代後期から平安時代前期の仏像に類似の形が見られるので、このことを重視すると、本像は奈良時代の中期あるいは後期、薬師寺像よりも数十年遅れてつくられた像であるということが言えるかもしれない。

もうひとつ、今回の調査でわかった薬師寺像との違いだが、なんと重さが約半分なのだそうだ(蟹満寺像は約2トン、薬師寺像は約4トン)。つまり、薄手につくられているのである。しかし、このことから技術が進歩している、すなわち薬師寺の像よりもあとの作であると判断してよいかは微妙なところである。

 

一方、奈良時代以前の像であることを示唆する調査結果も出されている。像の腕に付着した土の分析(炭素14年代測定)から、7世紀後半に遡る可能性が指摘されているのである。しかし、像内部に残った中型の土の採取が文化庁によって許可されなかったため、残念ながら良質な試料を得られずに行われた検査であり、これも決定打とはいえないとのこと。

 

このように、蟹満寺本尊をめぐる謎はまだ解明に至っていない。

ただ、かつては移坐されてきた像であることが前提のようにして論ぜられてきたが、移入されたことを示す積極的な証拠jはなく、本来この寺院のためにつくられた像であるという可能性は高まったとはいえるだろう。

薬師寺金堂薬師三尊像が藤原京の本薬師寺から移されてきたのか、それとも平城京で新鋳されたものか、長年にわたって論争が重ねられているその量と質に比べれば、蟹満寺の本尊に関する論議はまだまだこれからなのかもしれない。

 

 

その他

本尊に向かって左側には、阿弥陀如来像が安置されている。像高30センチあまりの坐像。一木造だが一部乾漆を用いる。

小像だが、大きな存在感を放つ。左足をぐるぐると衣が巻いているのが印象的である。平安時代もごく早い頃の作と思われる。

 

 

さらに知りたい時は…

『古代寺院造営の考古学 南山城における仏教の受容と展開』、中島正、同成社、2017年

『南山城の古寺巡礼』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、2014年

『京都南山城の仏たち 古寺巡礼』、京都南山城古寺の会、2014年

『上代南山城における仏教文化の伝播と受容』(公益財団法人仏教美術研究上野記念財団研究報告書第40冊)、2014年

『法隆寺と奈良の寺院』(『日本美術全集』2)、長岡龍作・編、小学館、2012年

『国宝蟹満寺釈迦如来坐像 古代大型金銅仏を読み解く』、蟹満寺釈迦如来坐像調査委員会、八木書店、2011年

『蟹満寺国宝銅造釈迦如来坐像保存修理工事報告書』、蟹満寺 編、2010年

『蟹満寺』(お寺発行の小冊子)、2010年

『京都の仏像』、村田靖子、淡交社 、2007年

『浄瑠璃寺と南山城の寺』(『日本の古寺美術』18)、肥田路美、保育社、1987年

 

 

仏像探訪記/京都府