現光寺と旧燈明寺の鎌倉仏

木津川市の「秘宝・秘仏特別開扉」で公開

現光寺
現光寺

住所
木津川市加茂町北山ノ上9(現光寺)
木津川市兎並(旧燈明寺)


訪問日 
2019年11月2日


この仏像の姿は(外部リンク)
木津川市観光ガイド・木津川市の文化財(現光寺木造十一面観音菩薩坐像)

 



木津川市の「秘宝・秘仏特別開扉」
京都府の木津川市では毎年秋、およそ10か寺による寺宝の公開の催しが行われている。
11月上旬を中心とした時期で、2019年の場合、11月2日から4日を中心に、お寺により2日間から2ヶ月間まで期間はさまざまに設定されていた。
また、5月にも同様な催しが行われることもあるらしい。


現光寺について
JR関西本線の加茂駅から北東に徒歩約15分。創建は不詳で、江戸時代以前の歴史はほとんどわかっていない。17世紀の後半に再興され、現在は海住山寺が管理している。
緑の中にたたずむように本堂があるが、本尊は手前につくられた収蔵庫に移されている。
普段は非公開だが、この特別公開の時期や5月、10月に公開日を設けているとのこと。また、それ以外でも10名以上で海住山寺に申し込むと拝観できると聞く。
筆者が訪れた特別公開では拝観料は600円だった。
庫内でよく拝観させていただけた。


現光寺の十一面観音像
比較的珍しい坐像の十一面観音像で、像高は約75センチ。鎌倉時代の作で、ヒノキの寄木造。
すばらしいお像と思う。実際の大きさよりも大きく感じられる。堂々としてとても美しい。博物館に出陳されたことがあるが、収蔵庫内でじっくりと拝観させていただくと、博物館のケース内での展示とは存在感がまるで違っている。

目は切れ長で、玉眼が生気を与えている。口やあごも生き生きとして、全体に若々しく、威厳がある。
上半身は堂々として、胴はしっかりと絞る。下半身は衣が深く刻まれ、古代の塑像や乾漆像を思わせるような深い溝がつくりだされているのが印象的である。
手の位置も絶妙で、てのひらをこちらに向ける右手は右膝の上に乗っていそうで、実際の位置はその上にとどまっている。
頭上面は1つずつが丁寧に髪を結い、全体として大変美しく、華やかさが感じられる。

 

旧燈明寺収蔵庫
旧燈明寺収蔵庫

旧燈明寺について
旧燈明寺収蔵庫は、関西本線の加茂駅から東へ徒歩約10分。木津川の支流を渡った台地上にあり、現光寺からだと南へ5分くらい。PC上の地図では「御霊神社」と表示されている場所である。

創建は行基とも空海の弟子の真暁とも伝える。もとは観音寺、東明寺と称し、近世より燈明寺と改められたらしい。宗派は真言宗であったが、15世紀なかばの復興(本堂、三重塔の再建)後は天台宗となり、その後再び荒廃するが、近世になってこの地を支配していた津藩(藤堂氏)の支援を受けて再興されて以後は日蓮宗となった。
本堂と三重塔の間に神社(これが現在も続く御霊神社)があり、まさに神仏が一体の姿のお寺であったが、近代以後再び衰退し、さまざまないきさつからまず塔が、さらに戦後には本堂までもが他へと移された。建物は移転したが、仏像と石塔は残されたものの、お寺としてはもはや機能しておらず、本堂跡に建てられた収蔵庫は京都にある川合京都仏教美術財団が管理を行っている。

収蔵庫の正面奥の壇上には5躰の観音像が安置されている。これらは鎌倉時代後期~末期の作で、この頃、本寺が隆盛であったことがわかる(境内地に残る十三重石塔もこの頃のものという)。なお、これらの観音像は、2019年3月に京都府によって文化財指定された。
収蔵庫の開扉は以前は11月3日のみだったようだが、近年は11月上旬の3日間の公開となっているようだ。庫内でよく拝観できる。拝観料は無料。


旧燈明寺収蔵庫の5躰の観音像
5躰の観音像は向かって左から馬頭観音、不空羂索観音、千手観音、十一面観音、聖観音の各像である。
昔から「六観音」というまとまりがあり、それには1躰不足している。また、不空羂索観音像は如意輪観音像の名称で伝わってきたということだ。しかし、三眼、八臂で第1手は合掌する姿は不空羂索観音のそれであり、いつの時点か名称が混同したものであろうか。また、これらは本来六観音で、いずれかの時代に本来の如意輪観音像が失われたのか、不詳である。

5躰の観音像には様式に共通点もあるが、異なる点も多い。像高も一様でない。
中央の千手観音立像は像高約170センチ。漆箔像で、一木造である。顔が小さく、すらりと細身の像。この像が本堂本尊であったと伝える。
その脇、左右に立つの不空羂索観音立像と十一面観音立像は像高約180センチで、寄木造、素地。この2像は細部については異なる点もあるが、全体の印象としては互いによく似る。顔は大きく、体つきはどっしりとつくられており、素地、檀像風であるのも千手観音像とは異なる。
一番外側の馬頭観音立像と聖観音立像は像高が110センチしかない小像である。
これら5躰がもともと一具であったのかは疑問が残るが、共通点として、下半身の衣の様子と、全体にどことなくエキゾチックな雰囲気がある。下肢で天衣は横切らず、衣は膝から下で円弧を描くが、折り返された部分や腰布は折り畳まれながら下がる。そのつくりが似ている。ほぼ同時代の作であると考えていいのではないか。

中で、中央の千手観音像が最も面白い作風であるように感じる。
顔は小さく、鼻筋がよく通る。体を若干反り気味にして、上半身は四角張る。下半身は長く、どこが膝か、どこから膝下かわかりにくい。ほぼ直立するが、やや腰をひねっているようだ。
衣は執拗なほど繰り返し折り畳まれ、変化をつけている。


不空羂索観音像の納入品について
不空羂索観音像には納入品がある。結縁交名約700人分の名前が書かれた紙70枚ほどで、その一部が収蔵庫内のケースに展示されていた。
納入文書には鎌倉時代後期の1308年をさす年、また「別会五師」や「一日造立等身観音仏」、「於四恩院」といった文字が注目される。

別会五師は興福寺の中の衆徒というグループの代表であり、本像造立には興福寺がかかわっていたこと、また、興福寺の子院であった四恩院でつくられたことがわかる。

「一日造立」「一日仏ソウリウ」「一日造営」など、「一日」という文字が複数の納入文書に散見される。このことから、用材から仏像として完成させるまでを丸一日の間に行う「一日造立仏」としてつくられたことが知られる。香を焚き、真言が唱えられるなどの儀式を伴いながら一日のうちに仏像を完成させるというものであり、本像はその実例としてたいへん珍しいものである。


その他(三渓園に移された本堂と三重塔)
かつての燈明寺本堂と三重塔は移築され、今は横浜の三溪園にある。
三重塔は三溪園の高台に、まるでこの園のシンボルのように建っている。三重塔の建つ場所まで上っていくと、本堂は真東に見下ろせる位置に建っている。
本堂は扉口から内部を見ることができる。内外陣を区切った密教本堂の形式であり、内陣には燈明寺跡の収蔵庫安置の十一面観音像の精巧なレプリカが置かれている。

三溪園ホームページ


さらに知りたい時は…

「一日造立仏の研究」(『仏教彫像の制作と受容』、中央公論美術出版)、奥健夫、2019年

『南山城の古寺巡礼』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、2014年

「鎌倉時代の特異な薬師立像と一日造立仏との関わりについて」(『哲学』132)、西木政統、2014年3月
『解脱上人 貞慶』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2012年
「燈明寺「六」観音像をたどる」(『"オリジナル"の行方 : 文化財を伝えるために』、東京文化財研究所編、平凡社)、2010年
『灯明寺の文化財 』(展覧会図録)、京都府立山城郷土資料館、1986年

「加茂町旧燈明寺蔵伝如意輪観音像納入文書について」(『山城郷土資料館報』4)、田中淳一郎、1986年


仏像探訪記/京都府

旧燈明寺千手観音像
旧燈明寺千手観音像