法界寺の阿弥陀如来像

  定朝様の仏像の最高峰

住所

京都市伏見区日野西大道町19

 

 

訪問日

2012年1月9日、 2016年4月29日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

京都観光Navi

 

 

 

拝観までの道

京都市営地下鉄東西線の石田駅下車、東南に徒歩約20分。

または京阪線の六地蔵駅かJR六地蔵北口から京阪バス日野誕生院行きに乗車し、「日野薬師」下車、すぐ。このバスは日中1時間に1〜2本。

 

京阪バス

 

まれに行事等のため拝観できない日もあるので、できれば事前に問い合わせてから行くのがよい。

 

 

拝観料

500円

 

 

法界寺のはじまりと薬師信仰

法界寺のある日野は、今は京都市伏見区であるが、昔は宇治郡に属した。

すぐ東には鴨長明が隠棲して『方丈記』を書いたという旧跡があり、かつてはひなびた山里であったようだが、一方で宇治の平等院にも近く、藤原氏の墓所が営まれた地でもあった。そこに藤原道長が浄妙寺(廃寺)をたて、その寺域の一部を日野氏が譲り受け、法界寺を創建した。

 

日野という地名だが、若き日の藤原鎌足がこの地を奈良の春日野と似ているところから、「春日野」と書いた札を立てておいたところ、神鹿が来て「春」の一字をなめとってしまったために「日野」になったと伝える。

 

この地を領した日野氏は、藤原北家の流れを汲む名族である。道長、頼通などの藤原北家(摂関家)とは遠い親戚となる。のちに親鸞、後醍醐天皇側近の日野資朝、足利義政夫人の日野富子など歴史上の有名人を輩出するこの一族は、どちらかといえば位の高さよりも学識の高さで知られた。その氏寺が法界寺である。

創建したのは日野資業(すけなり)という人物。日野氏伝来の最澄自刻の霊仏(最澄が唐より請来した霊仏ともいう)をこめた鞘仏・薬師如来像を本尊とした。以来薬師信仰の寺として知られ、別名を「日野薬師」という。

 

境内西側の門から入り、拝観入口の先、左手が阿弥陀堂、正面が薬師堂である。

薬師堂本尊の薬師如来立像(平安時代)は秘仏で、かつては11月に厨子脇を開けてそっと拝観できたこともあったらしいが、現在では残念ながら開扉、拝観できる機会は設けられていない。

薬師堂(室町時代)は、20世紀初頭に奈良の寺院(廃寺)から移されてきたもの。内外陣の境には格子戸がはめられ、そこに安産や子育てなどの願いをこめて奉納されたよだれかけがびっしりとかけられていて、信仰の深さがうかがわれる。

本尊には鎌倉時代の日光・月光菩薩像、十二神将像がつくが、こちらも非公開。

 

 

阿弥陀堂について

日野資業が薬師如来を本尊として法界寺を開いた11世紀半ばは、末法思想とともに阿弥陀信仰が盛んになった時期で、資業も晩年(もしくは没後まもなく?)丈六の阿弥陀仏をつくっている。

以後、日野氏ばかりでなく、その姻族によっても寺内に次々とお堂や仏像がつくられ、また他から移されて来た堂・像もあり、寺運盛んであった。

特に母が日野氏の出である藤原宗忠(中御門流藤原氏)という人物は、お堂を寄進し、祖父、父、自らが発願した阿弥陀像をこの寺に安置するなど、法界寺の発展に非常に大きな役割を果たした。

宗忠は『中右記』という大部の日記を残していて、その中には法界寺関係の記事の多く含まれ、この時期の法界寺の様子などを知る大切な手がかりとなっている。こうした記録から、平安時代後期の11世紀なかばから12世紀前半までの間に、法界寺には丈六阿弥陀仏だけで4躰ないし6躰もの像が安置されたことが知られる。

また、盛時の法界寺には観音堂、五大堂、塔、僧坊などが建ち並んでいたという。

 

薬師堂のはす向かいに立つ阿弥陀堂は、鎌倉時代の再建。

すっきりとした姿の薬師堂とは対照的に、阿弥陀堂は変化に富んだ形をしている。裳階(もこし)をつけ、それによって重層の建物であるかのように見せる。裳階の下は吹き放ちとし、支える角柱は細い。さらに正面部分の裳階を一段上げている。堂内は中央に丈六の本尊が安置され、柱や小壁には壁画が残る。かなり摩耗してはいるが、当初の華やかさがしのばれる。

堂内は像を安置する中央の空間を広くとっている。

その周囲に立つ4本の柱に描かれた諸仏は、金剛界曼荼羅の諸尊だそうだ。阿弥陀堂と密教像の組み合わせはなんとなく不思議に思えるが、大分の富貴寺阿弥陀堂などもそうである(ただし剥落が激しく、不明な部分もある)。

 

中世、法界寺はたびたび焼けているが、ことに1221年には一部を除いて悉く焼亡したと記録にある。承久の乱によるものであろうか。現在の阿弥陀堂はその後に再建された建物と考えられている。

 

 

拝観の環境

阿弥陀堂の中はやや暗いが、照明もあり、よく拝観できる。筆者は日の傾く夕方に行ったのだが、お堂は南面しているので、好天の日中であればもう少し明るい中での拝観ができるのかもしれない。

 

 

仏像の印象

阿弥陀堂の本尊・阿弥陀如来像(平安時代)は、阿弥陀堂の中央にただ1躰安置される。後ろの壁もなく、空間の中に浮き上がっているような、不思議な浮遊感がある。

像高は約280センチの坐像。髪際からの寸法で丈六となる。こうした丈六仏を「法丈六」と呼ぶこともあった。

ヒノキの寄木造。やや細い木を組み合わせて木寄せをしているそうだ。

顔はぷっくりとして、かわいらしい印象。子どものような顔つきのようにも思えるからであろうか。目は薄く開き、眉は美しい弧を描く。螺髪の粒は小さく、よく整っている。口は小さめにつくる。

体は意外に引き締まり、左腕や右の脇腹は衣でしっかりとくるまれ、緊張感がある。

脚部は低いが、左右によく張る。

やわらかい表情と堂々とした姿、安定感から、数ある定朝様式の仏像の中でもっとも優れた作ゆきの像といえる。

 

天蓋、光背、台座も本体と同時期のものであるのは貴重。ただし光背周縁部の華やかな部分は鎌倉期の補作という。

 

 

記録に見える法界寺安置の丈六仏

上述のように、1221年の大火以前、法界寺には少なくとも4躰ないし6躰の丈六阿弥陀仏が安置されていたことがわかっている。

以下、やや煩雑にはなるが、これら記録に見える像について、その由来を見ていこう。

 

その第1は、11世紀なかば、法界寺で最初につくられた阿弥陀像である。「本(もとの)丈六堂」の本尊であった。

のちに記述する第4の阿弥陀仏をつくる際に、本像にならったと記録にあるので、法界寺の阿弥陀信仰の根本となる仏像であったことが知られる。また、約100年後の貴族の日記にもこの像についての記述があり、そこにはこの仏像は定朝作であると書かれている。もっとも、定朝本人というよりもその工房でつくられた像といった可能性もあると思われる。

 

第2は、1083年に造られた阿弥陀像である。

藤原宗俊が父の遺願を果たすために完成させた像で、京都の一条本堂にまつられていたが、のち法界寺に移された。

 

第3は、1097年ごろに日野資業の娘を祖母にもつ藤原知信が造立した阿弥陀像である。

彼は「日野南辺」に「西方に思いを懸けて」お堂をつくったという。ということは、その本尊は阿弥陀如来像であったと思われる。大きさは不明だが、知信はそれ以前、父の一周忌に丈六堂をつくったという記録があるので、本像も丈六仏であった可能性はある。

 

第4は、1098年につくられた像である。この仏像が、第1の像、すなわち伝定朝作の像の面相を写してつくられた像である。藤原宗俊が発願し、その子藤原宗忠が完成させた。はじめ京都の一条小堂に安置されたが、のちに法界寺に移された。

 

第5は、関白藤原忠実が1120年に仏師院覚につくらせた丈六阿弥陀像である。

その仏像は本来は法成寺(藤原道長が創建した京都の大寺院、13世紀前半に廃絶)に小堂をたてて安置するためにつくらせたものだが、願いが叶わなければ(出来が気に入らなければという意味か)藤原宗忠に与えて法界寺に安置させるとの約束ができていたという。その約束に従って法界寺にもたらされたという説と、法界寺に来たという確証はなく、法成寺に安置されたのであろうとの説があり、意見が分かれている。

 

第6は、藤原宗忠が1130年に奈良仏師の康助につくらせた阿弥陀像である。

 

 

記録にあらわれる像と現在の阿弥陀堂本尊との関係

1221年に法界寺はそのほとんどの堂を火災で失った。

その5年後の法界寺の様子が、当時の貴族の日記から若干わかる。それには、阿弥陀堂が再建途上であること、そのために地蔵堂で地蔵菩薩像の後ろに阿弥陀如来像を安置して法要が営まれたことが記述されている。このことから、法界寺の丈六阿弥陀仏の中の1躰が火災から救い出され、一時地蔵堂に客仏としてまつられていたと理解できる。そして、その像こそが今の法界寺阿弥陀堂本尊であろうと思われる。

従って、法界寺阿弥陀堂は鎌倉時代の再建ながら、仏像は平安時代後期〜末期のものと考えられる。

 

では、上記の第1〜第6のうち、どの像に該当する可能性が高いのであろうか。

これはなかなか難しい問題で、推測に推測を重ねることになり、あくまでも可能性ということだが、順に見ていくことにしよう。

 

まず、第1の伝定朝作の像は可能性が低い。

理由は像の構造である。現在の阿弥陀堂本尊の構造をみると、平等院鳳凰堂本尊に比べやや木寄せが複雑になっている。一般的に、時代が下がると木寄せが細かく、複雑になるため、本像は鳳凰堂本尊よりも数十年時代が下るのではないかと推測できる。そうすると造像年代は11世紀末ごろと想像され、11世紀半ばの第1の像とは年代があわない。

 

次に、第5の像も可能性が低いと考えて外す。

この像は、既述のとおり法界寺に移されて来たのかどうか議論がある。しかし仮に法界寺に安置されたとしても、院覚の作ということから、現阿弥陀堂本尊とは考えられない。なぜならば、京都の法金剛院に院覚作の丈六阿弥陀像が伝来しており、それと比較すると作風の違いが顕著であるためである(法界寺像の童顔を思わせる明るさ、おおらかさは法金剛寺像の印象にはないものである)。

 

その次に、第6の像を外す。

理由は像の大きさである。本像をつくらせた藤原宗忠の日記『中右記(ちゅうゆうき)』には、この像は「周丈六」と記述される。周丈六はひと回り小さな丈六像であるが、阿弥陀堂本尊は平等院鳳凰堂本尊と同じく大きめの丈六(髪際から計って丈六となる坐像)であり、大きさが合わない。

さらに『中右記』には、第2の像を「丈六」、第4の像を「法丈六」と書き分けられている部分がある。「法丈六」は髪際から計った丈六、すなわち現阿弥陀堂本尊の寸法である。一方「丈六」といえば広い意味では「法丈六」や「周丈六」も含まれるが、書き分けているということは、第2の像は頭頂部から計った文字通りの丈六像なのであろう。そう考えると、やはり大きさの違いから第2の像も外して考えることが可能であろう。

 

このように詰めていけば、最も可能性があるのは第4の像、すなわち藤原宗忠の父が発願し、宗忠が1098年に完成させた「法丈六」の阿弥陀如来像ということになるが、第2の藤原知信造立の阿弥陀像をはじめ、ほかにも寺内に丈六阿弥陀仏があった可能性も完全に否定はできず、なお慎重に考えることが必要と思われる。

 

平安後期の仏像を代表する像は、いうまでもなく平等院鳳凰堂本尊の阿弥陀如来像である。定朝の真作として確実な像はこれひとつであり、造像年もはっきりしている。数多い定朝様の仏像とは隔絶した完成度の高さを誇る。

ところが、この像と年代が比較的近く、かつすぐれた作ゆきである仏像はというと、意外と見当たらないのである。

そういう意味でも、法界寺阿弥陀堂本尊像は重要な意味を持つ。なぜなら本像は、浄瑠璃寺本堂中尊とともに、平等院像からそれほど隔たらない時代につくられたと推定できるすぐれた丈六阿弥陀如来坐像の遺作だからである。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本美術全集』4、小学館、2014年

『法界寺』(『新版古寺巡礼 京都』25)、淡交社、2008年

『週刊朝日百科 日本の国宝』73、朝日新聞社、1998年7月

『日本古代寺院史の研究』、堅田修、法蔵館、1991年

「法界寺丈六阿弥陀仏造立考」(『仏教芸術』138)、三宅久雄、1981年9月

『右府藤原宗忠と日野法界寺』、河野房男、広雅堂、1979年

『中右記 躍動する院政時代の群像』、戸田芳実、そしえて、1979年

『法界寺』(『古寺巡礼 京都』29)、淡交社、1978年

「阿弥陀如来像」(『国華』843)、井上正、1962年6月

 

 

仏像探訪記/京都市