悲田院の阿弥陀如来像
快慶作の美しい宝冠阿弥陀像

住所
京都市東山区泉涌寺山内町35-1
訪問日
2025年5月8日
この仏像の姿は(外部リンク)
京都府観光ガイド・悲田院
拝観までの道
最寄駅はJR奈良線、京阪線の東福寺駅で、東に徒歩約15分。市立東山泉小中学校(東学舎)と市立日吉ヶ丘高校に挟まれた高台にあり、さらに東側には泉涌寺(せんにゅうじ)、西南側には東福寺の伽藍が広がる。
悲田院へのルートはいくつかあるが、筆者は東福寺駅から九条通(東大路通)に上がり、京都第一赤十字病院の北側から住宅地の細い道を抜けて行った。道は次第に登り坂となり、小中学校に突き当たると右手に車止めがあって、その先の石段に「悲田院参道」の表示がある。このあたりまで来ると急に木々が多くなり、登り切ると右手に悲田院の赤く塗られた門が見える。大袈裟かもしれないが、別世界に来たかのようでもある。境内の奥からは京都の街が見下ろせる。
拝観は事前連絡必要。ただし厳冬期には拝観はお休みとなる。
拝観料
500円
お寺や仏像のいわれなど
古代以来の社会福祉施設、悲田院の名を受け継ぐ寺院である。創建は江戸時代前期で、高槻の城主永井氏の菩提寺として開かれた。泉涌寺の塔頭。
本尊は阿弥陀如来立像。創建時以来の土佐派の襖絵も伝えている。
快慶作の阿弥陀如来像は客仏。近年智積院新文庫から見い出された『視覃雑記(したんざっき)』(16世紀成立)によれば、もとは泉涌寺新方丈本尊であり、真言宗泉涌寺派の宗祖、俊芿(しゅんじょう)の臨終仏と伝えられていた。
16世紀後半、泉涌寺は信長と将軍足利義昭の抗争に巻き込まれて大きな被害を受ける。17世紀はじめに後水尾天皇即位時の御殿が払い下げられて海会(かいえ)堂がつくられると、本像がその本尊となった。このころ、俊芿が宋から請来した中国仏と考えられていたらしい。
その海会堂も江戸時代末期に焼けてしまう。その後本像がどのように悲田院に入ったのかについて語る史料はないが、泉涌寺山内の寿命院に迎えられ、寿命院が1885年に悲田院に吸収合併されたために悲田院へと移されたのではないかと推測されている。
拝観の環境
宝冠阿弥陀像は本堂の本尊向かって右側に安置され、すぐ前から、また横からもよく拝観させていただけた。
仏像の印象
像高や約70センチの坐像。ヒノキと思われる材を用いた割り矧ぎ造。
まげを高く結い、衣を通肩に着し、定印を結んだ宝冠阿弥陀仏の姿である。ただし宝冠は失われている。
まげを美しく結い上げた様子や、天冠台のつくり、顔立ちの輪郭など、一分の隙もなく整う。額はやや広めにして、顎は小さめに、目鼻立ちはくっきりとつくられる。
肘や脚部はあまり左右に張り出さず、誇張を避けた安定した座わり姿である。横から見ると肘の曲がりとそれに沿って彫られた衣のひだの具合など絶妙である。胸や腹にゆったりと肉がついている様子が、衣のひだのつくりによって自然にあらわされている。左肩から胸の横へとぎざぎざと衣が控えめながら畳まれて、左右対称が破られているのも面白い。
かねてより快慶作かと言われてきたが、2009年の調査で頭部内よりアン(梵字)アミタ仏の墨書が見つかり、快慶が法橋になる1203年以前の作と確定した。他に忍アミタ仏、金アミタ仏、円アミタ仏など、快慶仏の他の像にも見える名前も書かれている。
その他
本尊に向かって左側に阿弥陀如来立像がまつられている。珍しい逆手の阿弥陀如来像である(来迎印の阿弥陀如来像は右手を挙げ左手を下ろすのが一般的だが、逆に左手を挙げ、右手を下ろすものをこのように呼ぶ)。鎌倉中期ごろの作。なかなか眼光鋭く、また衣の様子も面白いが、少し暗い場所であり、細部まではよくわからない。近々修理する予定とお寺の方がおっしゃっていた。
さらに知りたい時は…
『仏師快慶の研究』、奈良国立博物館、 思文閣出版、2023年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』16、中央公論美術出版、2020年
『快慶 日本人を魅了した仏のかたち』(展覧会図録)、 奈良国立博物館、2017年
『中世後期泉涌寺の研究』、大谷由香、法蔵館、2017年
『阿弥陀さま 極楽浄土への誓い』(展覧会図録)、大津市歴史博物館、2012年
→ 仏像探訪記/京都市