妙法院の普賢菩薩像

  毎月14日に開扉

住所

京都市東山区妙法院前側町447

 

 

訪問日 

2013年7月14日

 

 

 

拝観までの道

妙法院は、京阪線の七条駅より東へ徒歩約10分。 

京都駅からは、京都市バス100系統または206系統で「東山七条」下車。 

 

本尊の普賢菩薩像は普段非公開。毎月14日の10時より開扉法要があり、本堂(普賢堂)の一般参拝が可能。 

 

東大路通に面した門を入ると、正面に巨大な庫裏(江戸前期、国宝指定)があり、その奥にも大きな建築が連結しながら建てられていて、いかにも格式ある門跡寺院の風格のお寺である。ところがその本堂は意外にもこじんまりとして、寺の東南の隅にひっそりと立っているといった印象である。 

庫裏や大玄関から右側へとまわると本堂への道がついていて、やがて三間の小さいが味わいある建物が現れる。江戸時代後期の建物で、中に平安末期~鎌倉初期頃の普賢菩薩騎象像がまつられている。 

 

 

拝観料

特に拝観料等の定めはなかった。

 

 

お寺や仏像のいわれなど

妙法院は天台宗の門跡寺院である。門跡寺院というのは、皇族や貴族から住職が入る格式が高いとされたお寺のことで、同じ京都市内の三千院、青蓮院とともに天台宗の3つの主要な門跡寺院とされている。 

 

その起こりを尋ねると、もとは比叡山内の一院であったという。 

平安末期、後白河上皇(出家し、後白河法皇)が現在の三十三間堂の東側から北の京都国立博物館にかけての広大な場所に院の御所(法住寺殿)をつくった。その鎮守として新日吉社をつくるにあたり、後白河院より比叡山の妙法院院主であった昌雲を別当職にあてた。それがきっかけとなって、妙法院は洛中に移転してきたということのようだ。 

 

鎌倉時代、妙法院は現在の八坂神社の近くにあったらしい。それがいつの頃か、現在の場所、すなわち東山七条、京都国立博物館の東側に移った。 

その北側に豊臣秀吉が方広寺大仏殿をつくるにあたって、妙法院は方広寺の経蔵として組み込まれたが、豊臣氏が滅亡すると逆に妙法院が方広寺を管理する側となった。さらに三十三間堂をも管理するところとなった(実質的には中世から妙法院が管理していたともいわれる)。 

 

 

拝観の環境

7月14日の10時少し前、ここを訪れたところ、あまり広くない堂内に椅子席が設けられ、信者の方が法要をお待ちになっていたので、その中に混ぜていただいた。10時ちょうどに導師がご出座され、法華経寿量品を読誦、20分くらいでご法要は終了し、その後本尊の近くで拝観させていただくことができた。 

漆箔、彩色はほとんど落ちて、全体的に黒く、また見上げるようにしての拝観のため、顔の細部まではわかりにくいが、優美なお姿の像であることがわかる。

 

 

仏像の印象

像高は約60センチ。合掌し、象座の上の蓮華座上で結跏趺坐する。

本体と象座は当初だが、間の蓮華座は後補。技法としては本体はヒノキの割矧(わりは)ぎ造だが、像は寄木造。彫眼である。 

 

やさしい姿の像である。なで肩で細身の姿は、平安末期につくられた他の普賢菩薩像と共通する。ふわりと浮かんでいるように思える軽やかさがある。 

まげは低く結い、目は細めに、鼻、口、顎は小さめにつくる。概して院政期の繊細な美しさをたたえた彫刻といえる。 

しかし、肩にかかる天衣は別材をわざわざ矧ぎ付けているそうで、鎌倉時代彫刻の写実への指向が現れているようである。また、脚部の衣の襞もしっかりと刻まれる。 

 

象座がまたよい。顎から胸にかけて皮膚がたるんでいるのは、老象であることを表わしているのであろう。目は弧を描いてやさしく笑っているようで、菩薩をいただく動物にふさわしい賢さがよく表現されている。

 

 

さらに知りたい時は…

『日本美術全集』4、小学館、2014年

『妙法院・三十三間堂』(『新版 古寺巡礼 京都』18)、淡交社、2008年

『平安時代彫刻史の研究』、伊東史朗、名古屋大学出版会、2000年

『妙法院と三十三間堂』(展覧会図録)、京都国立博物館ほか、1999年

『月刊文化財』417、1998年6月

『妙法院・三十三間堂』(『古寺巡礼 京都』14)、淡交社、1977年

 

 

仏像探訪記/京都市