大報恩寺の釈迦像、十大弟子像

  快慶と行快、師弟による造像

住所

京都市上京区今出川七本松上ル

 

 

訪問日 

2011年8月8日、 2017年1月1日

 

 

この仏像(十大弟子像)の姿(外部リンク)

大報恩寺 寺宝・文化財

 

 

 

拝観までの道

大報恩寺は、京都の主要な南北の通りのひとつ千本通と東西の通りである今出川通の交差点からすぐ北西にある。

本尊が釈迦如来像であり、釈迦仏の名号を称える「釈迦念仏」も有名。清凉寺が嵯峨釈迦堂といわれるのに対し、大報恩寺は千本釈迦堂とよばれることが多い。

 

1番近いバス停は市バスの「上七軒」。京都駅からだと50系統、立命館大学行きバスで、30〜35分の乗車である。

「上七軒」交差点にあるコンビニエンスストアの脇を北へと進むと、数分で大報恩寺の門が見えてくる。

 

本堂本尊の釈迦如来像は秘仏で、年間10日余り開帳されている。

夏は、8月8日、これはお盆の行事である「六道まいり」の初日であり、この日から数日間の開帳がある。冬では、12月7、8日の成道絵(釈迦の悟りを記念する日、大根焚きが行われ賑わう)やお正月(1月1日〜3日)などにも開扉される。

 

かつては釈迦如来像の脇を固めていたであろう十大弟子像は、今は本尊と離れて霊宝館に安置され、こちらは日中常時拝観可能。

 

 

拝観料

600円

 

 

お寺のいわれなど

簡素な山門をくぐると左右に太子堂と不動堂があり、正面が本堂。それほど大きな寺院ではないが、本堂前には十分なアプローチがあって、鎌倉時代前期、13世紀前半の堂々としたお堂の姿が堪能できる。

 

この堂は、奥州藤原氏3代めの藤原秀衡の孫といわれる義空が多くの人の協力を得てつくったもので、今日伝わる京都市中の仏堂の中では最古のもののひとつである。

実は15世紀の応仁の乱の際に軍の陣が置かれ、当然戦闘にも巻き込まれた。しかし周囲は焼けたにもかかわらず、このお堂は奇跡的に焼失を免れた。

創建当初の寺院本堂が途中若干の改造を受けつつも今日まで伝わる極めて貴重な例となっている。

 

またこの寺院は、非常に多くの宝物を今日に伝えている。それらは本堂の向って左手にある2棟の収蔵庫に納められ、そのうちの奥の1棟が霊宝館として公開されている。

 

 

拝観の環境

本尊の拝観は本堂外陣からで、開帳時でも仏像まではやや距離があり、細部まではよくわからない。堂内にはライトもあるが、直接像には当たらず、やや暗く見づらい。

じっくり拝観していると次第に目が慣れて、この像の持つ生き生きと力強い感じが伝わってくる。

 

霊宝館はやや暗めの照明だが、よく拝観できる。

 

 

釈迦如来像について

本尊の釈迦如来像は、像高は約90センチの坐像。ヒノキの寄木造、玉眼。

螺髪は大粒で、髪際はカーブする。顔つきは若々しく、力強い。目力というか、眼に力がこもって、迫ってくるように感じる。

胸も堂々として、張りがある。衣の流れも一種独特の生命力をもつかのようである。気迫のあるきりりと力強い、気迫のこもった像である。

 

像内は黒漆を使って丁寧に仕上げられ、そこに銘文が朱漆で書かれている。簡単に「巧匠法眼行快」とある。

行快は快慶の弟子で、長谷寺本尊を快慶が再興した際にはその片腕として活躍したことが分かっている。

この時代、有力な仏師は法橋、法眼、法印という位を与えられた。

慶派では、その総帥である運慶は極位である法印まで昇りつめたが、傍流である快慶は法印の位には届かず、法眼で終わった。その弟子行快は、おそらく師・快慶の計らいによって法橋を得、その後、法眼へと昇った。

 

 

十大弟子像について

霊宝館の左手奥に、十大弟子像が一列に並ぶ。本尊釈迦如来像の眷属としてもともと本堂に安置されていた像と考えられている。

像高は各1メートル弱。ヒノキの割矧(わりは)ぎ造。玉眼。

 

十大弟子は、多聞第一の阿難陀(あなんだ)尊者、頭陀行第一の大迦葉(だいかしょう)尊者など、釈迦の主要な弟子10人をいう。

僧形で、ほぼ直立する姿は共通するが、顔つき(老いをあらわした者や若々しさを見せるもの、口を閉じているものや開いているもの、目の動きやおでこの表情など)はさまざまで、衣のつけ方や手の様子も1躰ごとに変化をつけている。

 

十大弟子像のうち、2躰の像に銘文がある。目犍連(もっけんれん)尊者像と優婆離(うばり)尊者像である(ただしこの名称が当初の通りかどうかは不詳。ここでは文化財指定の際の名称を用いている)。

まず目犍連尊者像だが、足ほぞに「巧匠法眼快慶」と墨書があり、台座には「正三位行兵部卿藤原朝臣忠行」の陰刻銘がある。

優婆離尊者像の像内には一部読めないところがあるものの、「法眼快慶」、「行快法橋」と考えられる名前がある。

他の像には銘記はないが、群像としてのまとまりからはじめから一具であり、快慶の一門によって造立されたと思われる。

 

 

十大弟子像の造像年代

大報恩寺本堂の棟木に記された願文には、1227年12月に本堂は完成し、釈迦像、十大弟子像などを安置したとある(寺に伝わる『大報恩寺縁起記』には、1220年に義空が仮堂を建設、1223年に本堂ができたと記され、数年のズレがあるのだが)。

棟木の願文を信じるならば、本堂本尊の釈迦像とこれに随伴する十大弟子像は、1227年12月の本堂竣工までにつくられたと一応考えることができる。

 

十大弟子像の造像年代については、銘文に書かれた3人の人物の位がヒントになる。

まず、目犍連像と優婆離像の2像の銘に登場する快慶だが、その位は「法眼」と書かれる。快慶が法眼になったのは1208〜1210年の間であり、それ以上位を進めることはなく、1227年ごろに没している。従って、少なくともこれら2像はこの間の造像と考えられる。

優婆離像に快慶とともに名前が書かれる行快は、快慶の筆頭の弟子である。彼は1216年に法橋になったようで、のちに法眼へと進むが、この銘文には「行快法橋」とあり、法橋の位にあった時期の作とわかる。

目犍連像の足ほぞにある藤原忠行だが、藤原北家傍流の中級貴族である。その肩書きは正三位兵部卿とあり、彼がこの地位にあったのは1216年から1219年の間とわかっている。

 

以上を総合すると、次のような推測が可能と思われる。

おそらく最初につくられたのは目犍連像で、快慶が手がけた。その時期は、願主と思われる藤原忠行の位から1216年から1219年の間である。

目犍連像には願主と工房の主である快慶によって銘を入れられ、他の像のいわば規範となり、それに続いて他の像が本堂完成の1227年までの間に、快慶・行快ら一門によって、次々とつくられていった…のではないだろうか。

 

なお、阿難陀尊者像の像内から数種類の納入品が発見されている。その中に1218年と1220年をさす年が書かれるので、この像がつくられたのはこの頃とも考えられる。しかし、納入品は内容的には釈迦十大弟子とは関係がなく、ただちに像の完成年代と関連づけるのは慎重にすべきかもしれない。

 

 

釈迦如来像の造像をめぐって

ところで、本堂で最も重要な仏像は、いうまでもなく本尊である。従って、本尊像は他の像にさきがけ、工房のリーダーによってつくられてしかるべきであろう。

しかし、大報恩寺の本堂本尊の釈迦如来像は、快慶ではなくその弟子の行快が手がけている。

 

釈迦如来像の像内銘にある行快の肩書きは、法眼である。

行快は1218年に法橋となったと推定され、大報恩寺十大弟子のうちの優婆離像を快慶とつくった時も、そして快慶の死後間もなく、1227年8月ごろに完成した京都府城陽市の極楽寺の阿弥陀如来像を完成させた時にまだ法橋であった。

大報恩寺の本尊像は、本堂完成の1227年12月の本堂竣工までにつくられ、その作者行快の肩書きに「法眼」とあるからには、行快はこの年の8月から12月の間に法眼位に進んだことになる。

しかし、この時代、仏師が高い位を得るのは、天皇家や摂関家など特別な造像にたずさわった功によるものか、または師の功績の譲りを受けた場合であり、このころ行快がそうしたチャンスを得て位を上げたという記録はない。

さらに、十大弟子像がかなり前からつくられはじめているのに、本尊がぎりぎりになってつくられたというのも不自然な話である。

 

そもそも、本尊の作者はなぜ行快なのか。

筆者は、快慶の人となりと関係しているのではないかと考えていた。

よく、「運慶、快慶」と並び称せられるが、慶派を主宰した運慶と傍流仏師・快慶ではその立場はまったく異なる。

快慶は、南都復興の造仏の功によって法橋の地位を得るチャンスがあったが、それを運慶の子に譲ってしまう。自ら譲ったのか、譲らされたのか、それはわからない。そのためもあって、彼は無位の時代が長かった。傍系作家の悲哀(?)を感じさせる。

このように、快慶は苦労人である。前半生には「アン阿弥陀仏」と称したように、仏への信仰があつい宗教人であり、のちに長谷寺本尊を再興した際には、「其身浄行」(『長谷寺再興縁起』)と書かれるほど人望があった。

こうした人物だったからこそ、晩年大報恩寺の本堂の造仏を任された際、自ら脇役にまわって、本尊制作の責任者を弟子に譲るという行為にでることができたのではないだろうか。

 

しかし別の考え方もある。

大報恩寺の本尊は、本来快慶が制作したが、それがなんらかの事情で失われ、その時にはすでに快慶が没していたために、その筆頭の弟子である行快に再興像の造仏が依頼されたというものである。

現本尊が実は再興像であると考えるならば、本堂竣工までにできあがっていたはずという条件は外れ、なぜ快慶でなく行快にという疑問は解消する。

しかしこの説の難点は、新たに本尊を造立しなければならなくなった要件、例えば本堂が何らかの災害に巻き込まれた等の記録はまったく見当たらないというところにある。

 

以上のように、この本尊の造立の事情はまだ解明されていない。

しかし、本像が快慶の調和がとれた作風と一線を画しているということは確かである。

厳しいともとれるまなざし、左右のバランスをあえて崩した衣の線は、なかなかに力強い。師の快慶の作風から一歩踏み出した感覚に満ち、それがこの像の魅力となっている。

 

 

その他

霊宝館内の奥の壁面、十大弟子像に向って右側には、銅造の釈迦誕生仏がガラスケースの中に安置されている。

釈迦信仰の寺にふさわしく、この種の像としては大振りで(像高50センチを越える)、しなやかな姿の名像である。鎌倉前期、この寺の草創期の像と思われる。

その右側の千手観音像は平安中期頃の作。この寺の創建前の仏像だが、もともとどこの寺院のものであったのかは不明である。

 

 

さらに知りたい時は…

『京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2018年

『千本釈迦堂 大報恩寺の歴史と美術』、柳原出版、2008年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』4、中央公論美術出版、2006年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』3、中央公論美術出版、2005年

「仏師行快の事蹟」(『美術研究』336)、三宅久雄、1986年

 

 

仏像探訪記/京都市

釈迦如来像
釈迦如来像