市場寺の阿弥陀如来像、四天王像

半丈六の阿弥陀仏と平安後期を代表する四天王

住所
伊賀市菖蒲池1471


訪問日 
2025年3月27日


この仏像の姿は(外部リンク)
伊賀市デジタルミュージアム・木造阿弥陀如来坐像(目録)
伊賀市デジタルミュージアム・木造四天王立像(目録)



拝観までの道
市場寺(いちばじ)へは、名張駅前から桔梗が丘駅を経由し、伊賀上野駅前を結ぶ三重交通バスに乗車し、「菖蒲池」下車。東へ約5分。
なお、観音寺(伊賀市東谷)からは15分程度で歩ける。
市場寺は無住で、市内山出の勝因寺の住職が兼務しており、筆者は勝因寺さんにお手紙で連絡を入れたところ、管理者にお伝えくださった。


拝観料
500円


お寺や仏像のいわれなど
真言宗寺院。
前身となる寺院が市場山長福寺といい、戦国時代と近代の伊勢暴動(地租改正反対の大一揆)で焼失して、市場寺として再興されたということのようだが、そのあたりの事情は今ひとつはっきりしない。
本堂は猪田にあった大庄屋の家を移したものだそうだ。仏像は戦後作られた収蔵庫に移されている。そのほか境内には南北朝時代の五輪塔がある。


拝観の環境
収蔵庫には、中央に阿弥陀如来像、その周りに四天王像が安置されている。
庫内でよく拝観させていただけた。


阿弥陀如来像について
阿弥陀如来像は像高約140センチの坐像。堂々たる半丈六仏である。ヒノキの寄木造。平安時代後期の定朝様の像で、定印を結び、右足を上にして組む。
いかにも丸々としているという顔ではないが、ほおには張りがある。目鼻立ちは大ぶりで眉は美しい弧を描く。
上半身は大きく、腕も太く、脚部は左右にしっかりと張り出す。
衣の線は流れるように美しいが、同時に1本1本のひだがしっかりと刻まれている。


四天王像について
向かって右の前から時計回りに持国天、増長天、後列に広目天、多聞天という通例の四天王像の並びである。像高はそれぞれ約150センチ。造像の年代は大きな括りでは阿弥陀如来像と同じ平安時代後期の作となるが、邪鬼まで含めて一木造(背ぐりあり)によって作られており、阿弥陀如来像に先行する作と考えられている。材はヒノキか。

頭部は小さめで、顔はゴツゴツした凹凸を刻む。増長天像は開口し、他の3天は口を閉じる。後列の2天(広目天、多聞天)は兜を着ける。兜は首をしっかりと守るようにしころを長くしている。
胸甲は小さめで、下のラインを波打たせる。鎧の各パーツをつなぐ紐はキリキリと体を絞めつけ、その上下は逆にたるみを作るなど、メリハリのきいた造形である。要所につけられた金具や鬼面も細かいところまで神経が行き届き入念なつくり。天衣は肩からと腰から下がる。

姿勢は、持国天像は視線を斜め下にし、左右とも手を下げて、右手で刀を持つ。増長天像も斜め下を向くが、右手は振りかぶり、左手は腰につける。左右相称を意識しながらも、体勢を変えて作られている。
広目天像は向かって左に顔を向け腰を入れて、左右方向への大きな動きを見せる。多聞天像は4体の中では最も動きを抑え、左手で宝塔をいただき、右手は下げて逆手で鉾を取る。
各像ともバランスがよく、かつ群像としてまとまりがある。動きがあるが、それが行き過ぎて滑稽な様子になってしまってはいない。平安時代後期を代表する優れた四天王像と言える。

なお、持国天像の邪気の底面に戯画が残されており、造像時のものとされている。


さらに知りたい時は…
『三重の仏像 白鳳仏から円空まで』(展覧会図録)、三重県総合博物館、2019年
『三重県史. 別編 美術工芸』、三重県、2014年
『上野市史 文化財編』、上野市、2004年
『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』8、中央公論美術出版、1971年


仏像探訪記/三重県