妙福寺の大日如来像

  平安時代の半丈六像2躰

住所

鈴鹿市徳居町2040

 

 

訪問日 

2007年8月9日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

すずかの文化財ナビ

 

 

 

拝観までの道

妙福寺は、近鉄の白子駅と平田町駅を結ぶ鈴鹿コミュニティバスで「徳居(とくすい)」というバス停から数分のところにある。バスは日中1〜2時間に1本の割合で、白子駅からは25分くらい、平田町からは40分くらいの乗車。筆者は神宮寺を拝観したのち、その近くの「稲生局前」から乗車した。15分くらいだった。

 

鈴鹿市コミュニティバス 

 

バス停の真ん前の小道を入っていくと、やがて妙福寺参道と書かれた小さな立て札があるので、その表示にそって曲がる。次の分かれ道で右に行くとまもなく寺の門の下に出る。こじんまりした境内の正面が本堂である。

 

本尊は江戸時代の薬師如来・阿弥陀如来の2仏で、秘仏であり、毎年8月8日から12日までの「薬師祭り」の期間開帳される。

本尊の左右に大日如来坐像2躯、釈迦如来坐像、聖観音坐像と3体の破損仏が詰め込まれるように安置されている。

本尊以外の仏像は寺に人がいればいつでも拝観できるということだが、ご不在のことも多いようなので、このご開帳の期間にうかがうのが確実である。

 

 

拝観料

特になし

 

 

仏像のいわれ

妙福寺の仏像の中で、特に優品であるのは2体の大日如来像である。ひとつのお堂の中にほとんど同じ姿の大日如来像が2体安置されているというのは不思議だが、もとは別寺院にまつられていたのであろうか。しかし、その伝来については不明である。

このお寺も、他の多くの伊勢の寺院同様信長の兵火で焼失している。寄木造であるので、分解し、村人が部分部分を持って隠れ、戦火がおさまったのちに再び組み立てたと伝えられているとお寺の方がおっしゃっていた。

長く地域の人たちに大切に守られてきたことを表す伝承である。

 

 

拝観の環境

筆者がお訪ねした「薬師祭り」の期間は、お堂の中にさまざまな供物が供えられていてるため、その間からの拝観であった。近くより拝観することができた。

 

 

仏像の印象

2躯の大日如来像は、ともに智拳印という忍者のような印を結んでいる金剛界大日如来である。

像高はいずれも150センほどの半丈六像で、ヒノキの寄木造。

優しい顔つき、彫りが浅く、美しく整えられた衣文は平安時代後・末期の定朝の様式を示す。膝の衣の線の優美さや平たくつくられた足の裏の様子などが印象的である。

2躰の大日如来像は似ているが、よくよく見ると、頭部の傾きや手の向き、衣の襞(ひだ)の深さや流れ方に違いがあるのがわかる。

 

 

法勝寺塔の旧仏か

かつて京都に法勝寺(ほっしょうじ)という大寺院があった。11世紀後半に白河天皇が創建した寺院で、その塔は八角九重、80メートルもの高さがあったという。五木寛之の小説『親鸞』でも、この塔は大変重要な場面で登場する。

 

この塔は13世紀初頭に焼け、その後再建されるも14世紀なかばに再び焼失してしまうが、塔初重の安置仏はそのたびに取り出されたことが史料から知られる。

妙福寺の2躰の大日如来像は、この法勝寺九重塔の旧仏であるという説がある(下記、冨島論文参照のこと)。

 

この時代、「四面大日」といって、塔の心柱の東西南北に大日如来像を安置したという記録がいくつかみられる。しかし塔内は狭く、せいぜい置けて等身大の像が精一杯である。ところが法勝寺の九重塔は当時としても破格の大きさであり、かつ八角形をしているために底面積も大きく取れ、8尺の金剛界大日如来4躰を4面に配した上、その間に金剛界の四仏を安置していたと記録にある。

 

一方、妙福寺の2躰の大日如来像だが、細部は異なっているところもあるが、互いに非常に似ており、特にまげのつくり方は瓜二つである。像高もほぼ同じで、丈六の半分である半丈六(八尺)の坐像である。同じ作者か少なくとも同じ工房の作と考えてよいと思われる。

しかし、同じ工房でつくられた2躰が別々の寺院に安置され、それが歴史上の転変をへて、また同一のお寺の本堂にまつられているというのは偶然に過ぎるのではないか。とすれば、この2躰はもともと一具であったということになる。では、複数の金剛界大日如来像を同じ場所にまつったという例があるかといえば、上記の「四面大日」を除き、文献上知られない。そして、一般的な塔の大きさでは、このような半丈六仏は安置できない。しかし、ただひとつ、巨大な法勝寺の八角九重塔の初重には、半丈六の金剛界大日如来像がまつられていたことがわかっている。

妙福寺の大日如来像は、端正で都ぶりな定朝様式の仏像であり、法勝寺がつくられた11世紀後半の作と考えて矛盾するところはない…

 

これは具体的な裏付けを伴うものでなく、あくまで仮説の段階である。しかし、法勝寺の塔の本尊のうちの2躰が伊勢の小さな寺院のお堂にひそやかに伝えられているとすれば、これにまさる歴史のロマンはあるまい。

 

 

さらに知りたい時は…

『東海仏像めぐり』、田中ひろみ、ウェッジ、2018年

『三重県史 別編 美術工芸』、三重県、2014年

「錐点から見た平安時代後期の造像手法の一側面」(『日本宗教文化史研究』29)、冨島義幸、2011年7月

「妙福寺の二体の金剛界大日如来像について」(『日本宗教文化史研究』26)、冨島義幸、2009年11月

『仏像東漸』(展覧会図録)、四日市市立博物館、2003年

『三重の美術風土を探る』(展覧会図録)、三重県立美術館、1986年

 

 

仏像探訪記/三重県