垂坂山観音寺の諸像

本尊、慈恵大師像と平安仏・鎌倉仏

住所
四日市市垂坂町1266

 


訪問日 
2025年4月17日


この仏像の姿は(外部リンク)
垂坂山観音寺ホームページ・観音寺文化財のご紹介



拝観までの道
垂坂山(たるさかさん)観音寺は、近鉄四日市駅よりキオクシア東門前行き(垂坂経由)三重交通バスで「垂坂」下車、北へ徒歩約10分。
名古屋駅から直接行く場合、名鉄バスセンターから高速バス(三重交通)桜台線キオクシア東門前行きに乗車し、「キオクシア正門前」下車、南側にある北勢バイパスの下をくぐる。徒歩約15分。
拝観は事前連絡必要。


拝観料
志納


お寺や仏像のいわれなど
天台宗寺院。比叡山中興の祖、良源(慈恵大師、元三大師)ゆかりの寺と伝える。中世には東大寺末寺になっていたことがあったらしいが、その後天台宗に復す。
16世紀に戦火で焼け、江戸時代初期に桑名藩主の庇護のもとで再興する。また、近代初期の廃仏の時期にもいったん廃絶するが、復興を果たして現在に至る。


拝観の環境
本尊の慈恵大師像などは本堂の裏に接続する収蔵庫に安置されている。
庫内はやや暗いものの、近くでよく拝観させていただける。


本尊・慈恵大師像の印象
慈恵大師像は中央の厨子におさめられている。扉を少し開いて拝観できるようにしてくださっていた。
像高は約80センチの坐像。寄木造。彫眼。
眉を高く上げ、目を見開き、鼻は大きい。容貌魁偉といわれた良源らしい神秘的で迫力のある像である。衣をスキなくまとい、両手を正面で近づけて左手で法具をとる。
像内にかなり長文の銘文があり、造像の理由、願主、仏師、年までわかって、大変貴重である。それによると、天台別院の垂坂観音寺は慈恵大師が建立する寺であるが、現在に至るまで根本像がなく、勧進によって造立するもので、願主は沙門永賢、大仏師として法橋乗賢、年は南北朝時代の1351年とある。


薬師如来像、誕生釈迦仏、地蔵菩薩像
本尊に向かって右側には薬師如来像が安置されている。像高は約150センチ、ヒノキの寄木造。
観音寺に伝来する仏像の中で最も古い像である。延暦寺根本中堂本尊が最澄が自ら刻んだ薬師如来像と伝えらえているように、天台宗にとって薬師如来はとても重要な仏であり、南北朝時代に慈恵大師像がつくられる以前は本像がこのお寺の信仰の中心であったのかもしれない。
なで肩で胸は薄く、衣は省略気味にあらわす。定朝の様式による平安時代後期、末期ごろの作と思われる。下半身はかなり長くつくられている。

誕生釈迦仏像は像高40センチ余りの立像。右手を挙げて左を下げる通例の姿の誕生仏であるが、一般的なものよりも大型であることと、何より木造であることが珍しい。一木造で、内ぐりはない。
足を少し開き、蓮華座が左右に分かれているのは、誕生した釈迦がすぐに7歩進み、獅子吼したという伝説に基づいているのだろう。
髪は螺髪でなく、自然な形であるが、あるいは清涼寺式釈迦像のような髪であるのかもしれない。体つき、姿勢は固さがなく、鎌倉時代の彫刻の写実性がよくあらわれている。

地蔵菩薩像は本尊に向かって左側に安置されている。像高約80センチの坐像。ヒノキの寄木造、玉眼。右手には錫杖を、左手には宝珠をとり、右足を前に外して座る。
玉眼が強い目力を発揮するが、胸は薄く、衣はひだがやや煩瑣にあらわされる。前に出した右の足は厚く、生々しくつくられている。

像内銘があり、造像年は1290年、仏師は法橋慶円とわかる。鎌倉時代後期の貴重な基準作例である。

このほか、収蔵庫内向かって右端に不動明王像、本堂の向かって右側の間に毘沙門天像が安置されている。ともに鎌倉時代ごろの作。不動明王像は像高約130センチでヒノキの寄木造。傷みが進み、やや痛々しい。毘沙門天像は像高約1メートルで、カヤの一木造。大きな動きが印象的な像である。


その他(龍泉寺阿弥陀如来像について)
龍泉寺は四日市市富田一色町に所在する浄土真宗寺院。最寄駅はJR関西本線の富田駅か近鉄の川越豊洲原駅。
このお寺に伝わる阿弥陀如来像は像高40センチ弱の立像で、鎌倉時代前期ごろの作。かつて武田信玄の念持仏であり、与えられた家臣が武田氏滅亡後にこの像をまつる場所を求めてこの地に来たと伝える。
全身の衣に脈打つようにつくられたひだの波が強い印象を与える。像内には結縁交名などが籠められていた。
拝観は事前連絡必要。


さらに知りたい時は…
『三重県史 別編 美術工芸 解説編』、三重県、2014年
『四日市市史』4(史料編 文化財)、四日市市、1989年


仏像探訪記/三重県

龍泉寺の山門
龍泉寺の山門