パラミタミュージアムの十一面観音像

  長快作の長谷寺式観音像

住所

菰野町大羽根園松ヶ枝町21-6

 

 

訪問日 

2011年8月7日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

菰野町の文化財

 

 

 

館までの道

近鉄四日市駅から湯の山線に乗り換えて約20分、終点湯の山温泉駅のひとつ手前、大羽根園(おおばねえん)駅で下車。西へ徒歩約5分。

年末年始は休館。

 

 

入館料

一般1,000円

 

 

館や仏像のいわれ

池田満寿夫が晩年手がけた作陶の代表作、般若心経シリーズをメイン・コレクションとする美術館。

 

パラミタミュージアムホームページ

 

十一面観音像は、2008年に県内の個人所蔵者からこの美術館が購入したものである。

以前の所蔵者の家には、興福寺からもたらされた仏像との伝えが残り、とても大切にされてきたらしい。台座や左手先、天衣のかなりの部分、まげとその上に乗る仏面、表面の塗りなど後補部分もあるものの、全体に保存状態がたいへんよい。

 

 

見学の環境

1階廊下にガラスケースに入って常設展示されている。

やや照明はおさえぎみだが、間近より、また側面からもよく見ることができる。

 

 

仏像の印象

写真で見るとやや細身、華奢に見えるが、実際には安定感がある。存在感のある像というべきか。

像高は約120センチの立像。ヒノキの割矧(わりは)ぎ造。玉眼。顔だけは別材らしい。

大きめの丸顔はやや平面的ではあるが、自然な凹凸が表現されていてよく整った美しさがある。目、口は小さめにあらわす。頭上面はひとつひとつに豊かなまげを結い、そのためにもこもことしているような印象がある。

上半身は厚みがあり、下肢や腕はそれほどすらりとは伸びない。

右肩では、天衣が肩から外れ、背中から右の上腕へとあらわれる。加えて、裙の折り返し部分も風になびいて、像を動きのある生き生きとしたものにしている。

ただし、下肢の衣の線の流れなど、生硬で形式的なところも見られる。

 

光背も後補部分が多いが、丸の中に梵字を浮き彫りにしたものを巡らす形式。台座は方形で、下げている右手には錫杖をとる。これらは長谷寺式観音像の形である。

 

 

長谷寺本尊との関係1

大和・長谷寺の本尊十一面観音立像は奈良時代に造立されたが、何度も火災で焼失し、現在の像は16世紀前半、何と七度めの再興像(創建時本尊を合わせると8代め)である。像高は10メートルを越える。

このパラミタミュージアムの十一面観音像がつくられた当時、すなわち鎌倉中期の長谷寺本尊は4度めの再興像の時代であった。この4度めの像は13世紀前半に快慶によってつくられたもので、像高は現在の像よりも若干小さく、10メートル弱であったらしい。そして、パラミタミュージアムの像は、ほぼ正確に当時の長谷寺本尊の8分の1の大きさでつくられている。

 

パラミタミュージアム像の作者は、長快という仏師である。パラミタミュージアムが購入した際の調査で、足のほぞから「巧匠定阿弥陀仏長快」と書かれた銘文が発見されている。

この「巧匠」「○阿弥陀仏」という書き方および、「快」の1字を持つこと、また都ぶりの安定した作風から、長快は快慶一門と考えられる。年がかなり違うので、直接の弟子かどうかは何とも言えない。長快の現存作品としては、京都・六波羅蜜寺の宝物館に安置されている弘法大師像がある。

東大寺関係の史料によれば、長快は1256年に他の仏師とともに東大寺講堂脇侍像の造立を開始しているが、この時「法橋」という位を所持していた。しかしパラミタミュージアムの像や六波羅蜜寺の弘法大師像にはこの法橋という位が書かれないので、単純に考えてこの位を得る以前、少なくとも1256年よりは前につくられた像と考えることができる。

 

快慶による長谷寺本尊再興事業では、快慶を助けた十数人の小仏師がいたことが記録から分かっている。しかしその中には長快の名前はない。おそらく彼は、長谷寺本尊再興事業で快慶を支えた弟子たちよりも後の世代の仏師であったからであろう。

しかし、長快がこの像をつくるにあたっては、快慶造立の長谷寺本尊を参考としたということは十分考えられる。像高がほとんど正確に8分の1である長谷寺式観音像であるということを思えば、参考にしたというよりは模したと考えるべきなのかもしれない。

 

 

本像の伝来について

ではこの像はもともとどこの寺院にあったものであろうか。

既述の通り、旧所蔵家に伝わる話によれば、もとは興福寺の像であったという。結構信憑性がある話で、これは興福寺の元住職の証言なのだそうだ。

実際この像と思われる像を、興福寺の歴史の中に見いだすことができる。興福寺禅定院観音堂本尊というのがそれで、大和長谷寺の本尊を再興した際、まさにその材の一部でつくられ、安阿弥すなわち快慶作という。快慶と長快、作者の混同こそあるが、禅定院の像が15世紀末に修理された記録と実際の像の修理部分とが一致しているので、まず間違いはないのではないかと思われる。

 

すなわち本像は、快慶一門の長快が、快慶が再興した長谷寺本尊を模し、その8分の1のスケールで造立した像であり、快慶再興の長谷寺像と同材を用いてつくられた霊像として興福寺の一院にまつられていたとの推定が可能である。

 

 

長谷寺本尊との関係

ただし、本像が完全なる長谷寺本尊の模造かといえば、違う。少なくとも3つの点において異なっていたことがわかっている。

まず、頭上面の数である。

快慶作の長谷寺本尊像は(現在の長谷寺十一面観音像もそうなのだが)、頭上面は10面で、本面を加えて十一面となる。化仏をはさんで前に2つ、左右に3つずつ、うしろに1つ、そして仏面で10面である。

しかしパラミタミュージアム像の頭上面は11ある。面白いことに真後ろに2面、重なりあうようにしてつけられている。これはあまりに不自然であり、ひとつは正面、化仏の後ろに本来あったのであろう。

次に胸飾りが銅でつくられていることで、長谷寺本尊では木でつくられていたことが記録でわかっている。

これらはあるいは、長谷寺側と当時長谷寺を支配していた興福寺側との見解の相違があり、長快は興福寺の意を受けて、あえて快慶作の像と違う姿で造像したといったような何か特別の事情があったためかもしれない。

もうひとつ、右肩から下にずらして腕をまく天衣や風をはらむ裙の折り返しも、長谷寺本尊とは異なった造形と思われるが、これは興福寺の意向というよりは、長快の仏師としての動きを伴った像をつくりたいという欲求のなせるわざであったようにも思える。

 

 

さらに知りたい時は…

『快慶』(展覧会図録)、奈良国立博物館ほか、2017年

『月刊文化財』633、2016年6月

『水 神秘のかたち』(展覧会図録)、サントリー美術館、2015年

『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇 補遺及び第一期総目録』、中央公論美術出版、2010年

『調査報告 長快作長谷寺式十一面観音像』、岡田文化財団パラミタミュージアム、2008年

 

 

仏像探訪記/三重県