8-6 湛慶作の像はすべて最前列

 

ゆいまくん ところで、平安時代中期に活躍した仏師定朝の系統がその後三派にわかれていったという話、覚えているかな。

百花さん 定朝というと、有名な平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像をつくった人だよね。その流れを汲んだ仏師が3つの派に… だよね。そうそう。分かれていったんだよね。

ゆいまくん なんかあやしいな。本当にわかっている?

百花さん あったり前じゃあない。3つの派だもんね。ほらほら、ゆいまくん言ってみなよ。あっているかどうか、聞いていてあげるよ。

ゆいまくん 3つの派というのは院派円派、そして奈良仏師だよ。名前に「院」の字がつく仏師の多い印派、同じく「円」の字がつく仏師が多いのが円派、そして奈良仏師を母体として慶派が登場してきたんだ。運慶、その兄弟弟子の快慶、運慶の子の湛慶らは、慶派仏師だね(近年は快慶とその弟子筋を「快慶流」として、慶派とは別に扱うことが多い)。

百花さん そうそう、よくできました。

ゆいまくん まったくもう、調子がいいんだから。
 でね、三十三間堂の再建期の仏像の銘文を調べると、この3つの派のすべてから仏師が造像に参加していることがわかっているんだ。なにせ、800体以上の仏像をつくるわけだからね、それはそういうことになるよね *。
 さっき中尊の千手観音像をつくったのは湛慶という話をしたけど、湛慶はまた、千手観音立像を9体つくっているんだ。湛慶作の像は、10号、20号、30号、40号、520号、530号、540号、550号、560号像だよ。

百花さん ふーん、湛慶がつくった像は10号像、20号像、30号像…って、末尾が全部「ゼロ」だ! つまり湛慶の像はすべて最前列にあるってことね!

ゆいまくん その通り! よくわかったね。

百花さん これって偶然…のわけないよね。湛慶の像は意図して最前列に置かれたってことかな。

ゆいまくん 現在の像の並びが鎌倉時代に再建された時のままかどうかはわからないけどね **。でも、湛慶は中尊の造立を任され、まさに三十三間堂の仏像再興の中心となった大仏師なんだ。あの運慶の子でもあり、早くに仏師としての最高位である法印にのぼり、おそらく造像に参加した仏師中最長老でもあったんじゃないかな。きっと派を越えて、尊敬を集めていたのだろうね。湛慶作の千手観音立像が拝観者から最もよく見える最前列に置かれたのは自然なことだと思うよ。

百花さん レジェンドの最前列仏ということね。で、湛慶作の千手観音像はどんな特色があるの?

ゆいまくん 湛慶作の像は、顔に張りがあり、肩幅も広くとって、再建期のほかの像と比べると堂々としている印象があるんだ。このお堂の再興を担っているという自負もあってか、ちょっと大きめの材をぜいたくに使ったりしていたかもしれないね。

百花さん どれどれ、520号像は… 中尊の千手観音坐像に向かってすぐ右の縦1列が501号から510号なのよね、そうすると、その隣が520号像、これね。その右の530号、で540、550、560号まで、5体の湛慶さんの像が並んでいるから、ここ、湛慶コーナーみたくなってるのね。
 で、湛慶仏は顔に張りがあって、肩幅を広くとって?… やっぱ、あんまりわからないかも。ほかの像と違わないと思うけど… ん、ん…?
 ああ、しばらく見てたら、なるほど、ゆったりと大きく作られているっていうのがわかってきたかも。確かに顔や胸は堂々として、胴は絞って、その下のもものあたりなんかは少し肉づきをよくして、膝下になるとすっと細くなっていく。リズムがあって、いい感じ。少ーしの違いかもしれないけど。でも、像に生気があって、豊かな空気感みたいなのがあふれて、じわじわ伝わって来るみたい! これが湛慶さんの像か。運慶の子っていう育ちのよさもあってなのかな、おっとりと上品な雰囲気もあるかも。

520号像
520号像

 

ゆいまくん 中尊の周りの4体と、千手観音立像の前に一列になって並んでいる二十八部衆像も、湛慶一門の作と考えられているんだよ。これも湛慶らしい上品さが感じられる像だと思うよ。

百花さん 湛慶さん以外の慶派ではどんな仏師がいたの?

ゆいまくん 湛慶が中尊の千手観音坐像を制作した際、小仏師として助けたのが、康円と康清という2人だよ。彼らは湛慶の次の世代の慶派仏師なんだ。特に康円は、湛慶が亡くなったあとを受けて三十三間堂の仏像再興を完成に導くという、とても重要なはたらきをしたんだよ ***。
 康円作と銘記のある千手観音立像は6体あって、そのうち4体(50号、60号、660号、680号)が最前列にあるんだ。康円の像は、湛慶作の像の雰囲気をよく受け継いでいるといえるよ。
 快慶流では、快慶の高弟の行快の銘記のある像が1体ある(490号)****。また、189号、200号など6体の像をつくった春慶という仏師は、行快が天野山金剛寺の明王像をつくったとき助作した「丹後公」と同一人物と考えられているし、無銘の像で行快と作風が近いものが一定数あったりしてね、行快の一門も三十三間堂再興事業には力を尽くしたと考えられているんだ。


(注)
* 鎌倉再興期は三派の仏師が揃って造像に参加したわけだが、一定期間に千体の造像が行われた創建時にも同じような状況、すなわち院派、円派、奈良仏師の三派の仏師がこぞって造像に参加したのではないかと考えられる。しかし、現在残る創建仏124体について、その特色をとらえていくつかのグループに分けていくことができるかといえば、それは不可能である。当時の仏師の派がそれぞれ造像の特色をもっていたとしても、このような群像にあってはその派らしさを押し出すことは控え、どの派の仏師も全体の調和を優先させるという考えに沿って造仏を行ったのであろう。

** 丸尾彰三郎は、近代以前の修理の際、「配列のことは、相当に、注意なしに行われたらしく…」と述べ、その根拠の1つとして像と台座の組み合わせの混乱が相当数あったことをあげている。現在の並びは「無秩序」だとし、鎌倉時代の再建時の配列がどうであったか知ることは困難と述べている(『蓮華王院本堂千躰千手観音像修理報告書』)。

*** 康円は湛慶の甥。父は湛慶の弟の康勝らしい。三十三間堂中尊の完成後、湛慶は東大寺講堂本尊再興の担当になったがまもなく亡くなってしまい、そのあとを受け継いだのが康円である。同様に、三十三間堂の千体観音像を完成にまで導いたのも康円と考えられる。康円作の6体の千手観音立像の銘記には「大仏師法眼康円」と記され、さらに落慶供養の日付である文永3年(ただし2年と誤記されている)4月27日との記入があることも、その裏付けとなっている。なお、三十三間堂中尊造立で康円とともに小仏師をつとめた康清は、千手観音立像には銘記を残していない。

**** ただし、この490号像について、作風から行快作の像と考えにくいとする見解も出されている。

 

①康助…三十三間堂創建時の大仏師か
②康朝…三十三間堂創建時の造仏に参加
③康慶…蓮華王院五重塔造仏担当
④運慶…康慶の蓮華王院造仏を助作か
⑤湛慶…三十三間堂再建時の大仏師、千手観音立像9体に銘記
⑥康円…湛慶による中尊造立の小仏師、湛慶の死後蓮華王院造仏を完成に導く、千手観音立像6体に銘記
⑦康清…湛慶による中尊造立の小仏師
⑧行快…千手観音立像1体に銘記(行快本人の作ではないか?)
⑨春慶…千手観音立像6体に銘記